o- _: v0 G n$ R: F4 J2 W 「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」% P8 {: J0 }) S' A1 W
; i- l# ?6 W" v9 A6 x4 p 同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。5 z) U( w! A) y/ h
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中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。" b8 ]) P$ q+ H4 o; g# H
N" L# D9 @ S' h/ I- q! o 天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。 ' T$ D# ?$ n+ ~9 J 1 {: t7 ?5 {* _2 O4 `8 w+ c2 ^& Y なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。' ?* c( W4 ? W d3 D5 @
5 ^( [+ ~6 _$ Q( j% r4 D ^; F 2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。 I7 Y' \, N4 ]5 z1 @/ L W$ K; [ $ [ l; ^* ?7 R7 R7 F4 Z 天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。 / @, f& z$ w y* N& ]3 O' N 6 _, x' A1 v8 t1 h7 y$ Z 事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。6 s+ y5 `' S# K. L N
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同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。% k) c4 v/ M G0 T# E+ N, _( O, U x% N
- i# K3 s3 ?4 y トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。: q* C. E, F4 d0 Y( q O" M, n" X
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「富をどう分配するかは大問題だ」 & U& H0 m+ a: k+ b: U / s: L' h5 j& @( b: Z 「この問題の解決は発展を図るより困難だ」# r7 X; @5 u! f, l& g y! b
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「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」, f3 j) C! c) O( P
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トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。 % A, J7 e( y! d4 `6 K. T! r ~0 E5 Q* i! v0 P
トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。9 J4 _9 L. ]# M6 b7 e3 C
9 x# ~' C8 s/ q7 O 経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。$ u B F O' [1 ^
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毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。/ w; b. N) j+ S0 C5 \+ b$ g$ r: ?
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利6 l, A; Y) C. a9 y$ Z
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根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。 7 \1 F3 \6 v, ~( o# ~8 j7 ]& e. S& V4 s0 U* z
文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。5 ~7 J( c( T& x/ @
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当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 ' M* Y% I* K6 l5 M+ j3 A4 ]$ s" f * v+ H; w6 r; ?$ }/ Z 秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。* t0 ]1 W4 @/ k9 D/ _5 l
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担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。; Q# @$ @9 _, p' R
5 L+ [8 O# ]- ?! t. A 李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 2 ~6 l' w# M% s+ x% D + a7 l3 _; u" z' f. I( ^! k/ K 在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 - d3 j; w( `) d8 r# {* f7 m , ]% [! f) H( r& T; j( l* I【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない % q9 f2 C5 n2 A+ \! R1 A" z/ o) l+ m' d2 H1 W
胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 k- P7 z( F5 `% W7 u& ^" G d" F" w& s9 i+ W6 h0 w/ v, _9 S
その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。) I( E8 b( U* I! i7 \ ~
% H4 n1 G' v8 s 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」8 E2 N) H# [; E1 Q M9 M/ y) x
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弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。3 L5 N6 a" t: o. t O
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胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。% e9 o1 y$ M) ~: g& y
9 U1 J& i5 W* J1 p3 u) O かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 6 U3 ]0 M. G7 ^7 s- _% z3 ]4 d# `1 v! ?! Q: s. s' O
朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」( I/ Z4 `% n+ @1 N8 {- j. Y7 R
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トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」& u v3 q | y$ z9 j
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しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。6 n$ Y1 C0 M8 n9 N+ p1 c( [
* C, |* z0 ?9 B: J# u 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。 , K4 m' w( T d3 s / V. K) w2 C+ G) [. [% H7 x 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)) ~& W+ j. u# M: r
/ L7 _9 r9 ]( T7 d( n" u 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。 & Q ]4 l3 e0 G& z2 C: f1 F" q7 ]5 k) o( }% J9 ]- b4 Z
「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」9 n( H) a* @! q L
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それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 / ]5 z, d2 ?2 F; T* F5 n6 @2 N6 ~" p/ V" H+ R% j% w$ j8 g
《ひっくり返った党人事》 ( Y+ T8 I4 i. j- ?8 h. E' W1 W4 z- B3 o1 {6 g
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。 2 j+ Z9 F9 Z# z1 T7 R% g4 S8 X( \5 _, E( x
保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。. g* b8 v+ e. t% F6 c
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5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。5 Q) m" i" M. {5 _4 d1 v- m
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10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 - n9 t# N. Y0 _( L5 x1 @/ G/ z1 K 7 T! n% ]- v- F- E 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 + L# P$ O7 E: C1 ~4 n, l5 ? # |9 z+ Y( y/ L* Q; Z1 b4 t1 v( C3 j その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。; G- V$ g8 z6 T6 z* f) b4 Y9 T; n
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趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 7 }4 _9 s4 e& L + |. E1 P' l7 a- ]7 p! U3 T6 D このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。# e" I' e q% K2 Q! a1 d3 _
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陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) 1 L: Y0 y# R# y) X& s& v% m$ C0 {4 Z$ i
■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。( w2 i! ]) h7 ~6 G
" g. ]3 }+ m# Y& ]! h8 K ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。6 Q" R* R+ ^; h) X8 ]+ d
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●=彫の周が丹 . e H$ w7 L6 u5 _5 n $ [* L( ` z( w0 Y! u6 C& g(2007/02/20 07:26)& Y4 u6 ~. C( u& H8 t
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! F s3 D" I) b2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
# p8 [' C; W8 b6 |& y文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。 & ^# j+ q: i. r; U4 r0 h+ k3 c) a( X
邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。 0 ~2 |+ k# t0 J X4 Y7 a0 D5 I 8 E. I' `8 ~/ ?( H$ e+ i第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。* ?9 C6 T# ~* M. Z/ m
; }9 H8 ]/ s$ z3 i邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。% M8 a( e, I4 s7 t' E
: H: b) i. J4 G胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。3 N: V# l+ w, W1 ~. i) X
8 q; ?* X5 ?% ?2 ~% w' c 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 i7 I' G1 J& C2 C/ L! e& @ $ ^ M( x" c, k3 B 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 3 i) z/ G+ p( C+ \2 x: f4 {' J" g/ _! o
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” M- b! F4 ~& A: ]& ]2 r' Q: e `. J, H o
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 3 r& |' \' {/ `% ^- S2 I3 z ; e E/ C# G7 x0 z5 w& |3 o0 D/ Z, R 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 8 r$ I3 q5 f2 l( O) o" R& T) K
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香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”& ?( n! k M7 A$ U& j. e; t+ e
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他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 ' p" {4 U* [/ Y# n! h/ I( x! ~( a/ R' }: T
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 / v d* j0 }6 j. ? 7 I" a6 k, Y+ u 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 / v. ^* T$ Y, {* I$ S# z 5 X) o0 u* O) `! f; ~& {4 @" l" p" Y/ Z% F" ~
9 b4 V: q1 e" ~China honours man who reshaped world3 W+ q9 R/ H. {% u$ Z3 k
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 8 {( p. @$ V/ Z7 U9 C' z W / x& O& ], f9 {China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 0 k% L C O( s! ~, b: q# S
8 H. M; b# A( H
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ; h7 O4 [4 j0 x' k * Z1 J9 \- p# n) K+ {His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 7 j+ z. u6 a% W/ Y8 P! W 2 ^' z/ O4 q1 |7 ?“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 1 U j! z; ~& W: Y% Y4 R4 S1 ` 8 H2 d' c1 t; [/ PMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. - t8 R0 v( U2 \2 F* E6 G
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. ) [# l* f; |4 g2 H. }" T 9 q0 d* O( u& X& O& w7 C% l9 R8 FShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” + e( v& W" P: R* j, q" |# n/ u2 r4 V
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. % j. a, \* Y4 l7 T
! z q* o" F2 T) ?1 A2 y) NDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. % I/ y! `8 F ^ 2 Z d; J d2 h1 P) fDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” . W( N7 m9 S2 U8 V9 p( y: Q/ W6 A4 ?9 S% q+ a8 A5 C
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 7 ]6 z; c6 f. X+ a3 a( s
7 Z. {# {8 P( J7 w4 G& x2 e8 q% UMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 4 }4 j) K+ ?4 z. i ' ?) i( z. c% E( D# C# vMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. ! ` n1 M& m# t& V# w6 f! L
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But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. + S0 P0 ^' u4 ?8 R$ h! {# R
+ ]6 f5 F9 q5 A9 o3 d2 c2 Z
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ' J) F- P* |; t$ N, V/ L
* b- M: D) ~, i2 L5 @Long road to riches * A" N- U" L8 { 8 F% o& d8 K. Y5 x4 w0 CNow 2 ]* E5 G* c& ~- Y
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Population in cities: 550 million ) j1 l) g X" `7 V) u: F! n9 _5 b2 x
5 o1 G% l/ G J
Gross domestic product: $10 trillion 0 Z, u6 V- f" \% t / a( l* R# z8 Q% T/ uOil consumption: 6.5 million barrels a day , H. l! R- A7 C- j" F8 u4 g) a
- }% N% B }4 c, N9 [( L
Exports: $954 billion ; b' Q% S4 w: c3 ? : [3 O% l2 I5 S0 }! OPopulation below the poverty line: 130 million ' h% g9 n N4 o# |/ ?
3 s& a' \, X/ ATen years ago7 X& i7 C' D: G
. t8 @+ w! B/ g* J% Z5 {9 m5 _Population in cities: 370 million 9 M# [% Z7 ^: V% a0 L
' }, H/ Z d, q- G! S& H
Gross domestic product: $4 trillion ; D! I% c" q0 S# b' n/ U- d1 p z- Y- @/ J) `$ ?* H
Oil consumption: 3.9 million barrels a day % p" n0 S e3 C
/ R. i: E( ^) p% z( \% W/ u: ]
Exports: $182 billion & W7 V; @) _& v+ ]( Z
) {; Y- K3 v; y1 W: XPopulation below the poverty line: 120 million 2 }5 I! s8 g3 V1 O. ]& s! L4 ^. X6 h" F! H- c1 }
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies' ^1 G- n2 y& e+ X' E$ }0 S" Y
/ z" _7 ~* y. F, V1 d 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。! l% Z9 @* n. A' c. n
`9 ~6 t1 F0 r2 s h4 \6 q* B! A
●=彫の周が丹; ]) m, Q( b" X: U
5 r+ ~2 h6 j! ?! ^8 v+ y# V! P6 h
(2007/02/22 )
9 @: U; X/ v" j. B I. f 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。1 @+ \ V% W( N2 h
/ G; M* h0 ]8 k+ j7 A 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。& }7 p; C; x7 }! A& q
3 i; A+ [- M n7 K
「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」# b; u4 c" I; f* x
0 F# Y& T. I2 w& X# y% @
陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 2 B& y2 m5 g, H; M9 I8 A Y% |( r) h6 T
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。 ; x$ c$ L% a7 y3 }, D+ Z6 U8 d# W4 Z* u- U
「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」 0 Y$ R; P: y& w' N7 K: d1 B2 z- e; \4 D5 O
10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。 / a+ C. a) g. [. d" ~ 4 {9 m2 x+ {/ f- u; k) k 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。' ~; \3 S6 ^; \( C* [
, R6 @: p% ?/ @
改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 8 ?" |6 y0 U! b6 x2 p& o% Y7 b: o# \, X5 Z
≪空白の2カ月半に何が≫ ' E, N' X, k2 f ' c4 |6 S- a. d% r3 }3 k# C 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。9 m. i# Y" i F* ?, ?
& O( Z+ V G4 i: ^0 m4 v
この間に何があったのか。& t; U, z5 i" j7 z3 u/ u
- _* p5 n, t& S) K* {, b/ F トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。 ' Y+ {7 R& @+ f. d. w' W; R& b; V0 c) o/ C- T5 R
趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。$ o4 y5 ^3 v+ l! U3 V
1 W( {0 h% `6 G% t3 r' m
新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。 2 k$ K a7 P# C: \( T h2 e2 P, _* D
学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)/ W/ B; G0 G- O( @ K
* J9 u2 i. W5 E
トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。 ( R5 `! z! \7 w6 Y, W * v; a' e* u, X" K- Q' `3 B このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)% P( x b A- K/ e8 W, D2 G
( R; m( `' L1 ~ ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。 ! E B. @; a, d! s+ C3 A- @6 q$ O8 A! M" W4 s+ d0 s( g
(2007/02/23 07:54)
0 m: P1 b9 I$ L# r0 X2 t( o 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。" U9 Q( A2 p) k+ C
9 S6 c6 k+ `% z% }' b# W Z- H
文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。$ z' `+ j9 E) ?% I8 z( V$ O9 J; p
' f! i: S# |8 j" F \9 R 根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。 0 ^0 @5 k" n# d* p u1 d6 h3 v/ N* i
两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。$ `/ c, T5 f- [( _ n( c
! j' H8 O- o w- g 十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。 - Q9 s2 W! a P, s1 z1 A+ L$ x1 C; D# ~% @, W
十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。3 b) p+ z- ]" z4 {/ Q3 J" B# ~
, u- e0 \( B* R8 o8 x 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 0 T* [# _; R& b $ S0 e; x- {7 J3 m; y4 n 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。2 I4 R7 B% r1 _( }) G+ v
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由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 3 \3 w \7 x) F" ? - o. q: j$ ]# ]5 I( [ r4 j$ ? - _3 y y: ]) ~* P! G' A. @【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件! }% t2 ]7 e1 P+ B. q8 c( h
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■下心ある者を警戒せよ , t% s; W9 }, Q, c+ W- A # X H5 X- f# E# K, ]: @8 d 異変は、新華門事件から始まった。" h2 d$ k4 c. b+ c. e
6 H) k! b. |8 \! j" u1 E" v2 u 1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 # |+ k. O- e3 s" O. U. b & j l# O, C* W それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。 6 C4 h5 u. d+ u5 P9 e 6 V. @% ]4 P* q! P" O2 o0 o いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。3 ` L( \7 _6 s6 ^% M
4 Q5 D2 w5 Q8 c2 Q: q5 L どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。 4 Q& j% G3 w: R 5 s' w0 s C0 w0 ?; |$ [2 ^; Y 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 - Y2 _7 X6 c8 [& s6 i: q; R& @ " x% l% O4 {4 v4 p9 z: X. C 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。9 @! e3 ]' [2 H( r2 n
& ~1 |$ h* l4 F' Y9 M
まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。8 m5 C% `5 w8 A1 w* Q' z
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党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 / ]" P2 k) P0 ^1 ]4 i* V5 {0 r; v6 e- o
89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 ) L% I% ^1 j% E% X 4 i. d( D1 T* z2 V/ I6 M7 h7 e i 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 % p9 r3 [1 n; v% |% c W+ F 1 w1 A7 X. V& j5 E4 F8 u 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。 0 G' F# T8 U/ d5 W. l: j' Z1 N
この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。- B2 J1 N7 m; p4 l2 q
; y# X/ b4 Q, g& {5 S
「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。 ( |6 Y) H) C) _$ W " v3 S0 R& [1 R c 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。" y4 u7 E% G! g8 d6 d
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全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。 ) R( Z4 n! n& q n- ]& W + |, O! `7 C z; k/ o この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 $ @/ ~* Z2 O# {3 Y* L9 i ( R* \1 [, p4 E8 {4 q 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。! a: a+ j. t. p6 f: ~ r
' E- h* t3 t. V+ a! H 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正) 1 g+ A7 e# A0 Y+ R2 A i / J/ p3 T6 D# O% Q ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。) e( E: U1 b# G* w2 G
% N ~, [& x3 }5 S: l* G4 W$ q
(2007/02/26 07:41)$ w& w. R8 Z- K4 w/ r2 Q" k& _. r
8 a4 R% I7 ^1 x % a0 \) l6 y4 U, v- K/ N' ~ 7 {4 d$ I" ^. G( l/ d" P- g( b3 M' ?/ r/ U
% [- p3 k, z2 W) L+ }
1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち
邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」 / Z) h/ c! ?* d5 B中央社 : L; U1 j W, G, F2 F) ?/ z ; ^3 K4 Y% |4 k$ j* A 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。 & u# t3 t6 [& I" ?4 s- ^9 U9 o * W/ {" v g* ~$ n" L [& P 连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。 1 X0 A# @7 R3 O& A9 t 5 z2 a! e1 y- S" ~2 y2 P( z 中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。) j G' \) e5 }
, k7 g+ M/ }3 L+ a' b 秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。 % f$ S4 o- v* {% p ' D( v- i0 r+ o! U& E% O* U1 D 文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。1 d: S8 _0 Q8 q! g
3 g% p b* f+ L4 ^% y 北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。9 z2 [, D. H6 m. f$ u
2 d+ C5 | Z. l4 Z( @赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。$ b& Q }: d7 Z, I! R5 y7 N- m K! D
! N/ V* c& W+ F- X6 C1 A“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。6 r3 n z4 E& ?1 v
x. s" F0 Y: z" s9 Q渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 ( C+ T# Q( S1 i0 l: ]: q& [. b z
“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。 7 M1 @: e6 \# k( k) {) n4 ^/ ?" L
赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。- |. }+ U8 \4 ?; H% \6 Z4 u8 P+ b
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【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 # X, `# X1 u! s( A1 h, m, k/ _+ U7 g0 o. `3 ?" F
見通しが甘かった . P" e0 `/ N7 h* u $ G9 S$ @3 B3 G6 I, L5 [ S# @/ } 「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」 3 g& N- }! k% k: d9 ?: N2 O! P1 \* H
天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。 ! l0 j, d" F( U# Q4 z$ _( h# A6 F( ?1 l' \
「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。3 ^& ]! v* {2 x
* G. R8 B& z S
張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。 / l; M" ^) }6 H- x( Z# b z8 h, v3 j$ y6 Y
趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」8 w$ r! c2 n9 ~8 R+ d" K
. @2 o3 z, a0 V b6 C) n トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」 0 j! M# R# s1 {4 ^$ H* ^- p6 o; g5 ^: V
趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」 4 n. I. i' b8 a& y; T2 k# ]% j9 O. B. n- T% W* k
トウ氏「結構だ」 & m2 o1 f# Q+ p 8 X' e' {5 a8 k5 i7 Y# c/ Y 趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」 # u: O( p6 c; R. o) n4 Q ) N' E+ a" k1 V+ [) y n9 o) @ その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。 3 z; y3 I' Q7 h& d3 W# A' ~5 Q+ {+ h. p
「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 ' H: C: j2 M2 n7 T5 q% a( a/ q& T3 A; g; x3 @) v: B
北京市の李書記が続ける。, C5 b8 W0 M4 [- l, d H( s0 C
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「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」4 J6 s' v4 E" ^( A$ G% u
$ B" v8 s8 K) l& M それに対し趙紫陽氏は言う。 $ c& C9 n$ i! f n 5 ]5 Z0 s% K: S 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」; @" \3 b C" m" V* B# t
3 ^) s6 j9 f) j0 h9 B( o; E: o2 ~ 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。 2 Q: M) y8 C4 M: E0 ^% o: \- F* z; A) `7 c1 t: q R$ m* X
趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。; V+ q9 c+ {8 {( g
8 _6 p4 \" v" i 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。 6 y% f/ J) i( S8 f2 C* y2 P- i4 k% v
4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。0 Y: R9 s# {& F
g) {7 o$ C# O0 z$ J X 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」& L4 ~. z7 o, g% h( ^9 a8 O$ x
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学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。5 h! k' \7 _3 H3 L* q# V: }
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数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。 ) u' o+ H J" n' {) ~- O; R: r( ? * C- P5 e7 x. K/ _+ j) l 「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 ! `4 z8 x7 H$ v3 j 7 W! J8 T0 Y3 u8 i 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。 2 x# c) T7 s$ l7 @' q/ r. c' k0 x7 W+ T" l! W5 V. ~
趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正)% K3 L# U2 x* E* d* Z
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■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 ! m7 o' U4 R2 F! B; W7 i ; ^( S+ O- G# |8 k4 A( |●=くさかんむりに内: H; M4 I/ j# O- s
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(2007/02/28 ) 6 ~" m W/ M& I+ l3 s$ E( l! t, e r# y: W! d
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邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对+ a' E I6 z9 I; N7 C
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(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。8 S* g2 ~, v# @# ]
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由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 ; v) t' ]7 d1 m5 R* N* M* }“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。 + d# ?6 O& R8 A$ h / }4 m9 a$ H6 b' s3 Q“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。 $ A. E# A- x0 s) T & c7 s+ l0 q2 o/ ~. f q另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 9 R: I: }! U$ X0 ^& U9 q / Z# k: P" f h2 [* f9 M“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。 + n- i, T `" x# p/ [, g2 R; X 3 J/ E& K2 e7 }5 r/ _- z“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。8 o. A4 y' c7 h9 Y% r2 U) K+ W* b
8 s' m, G, r1 R* O: y于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。+ V- O* ^$ h$ m$ b
+ q4 D* B8 D Y不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。 + W) l% n _1 o& M j' @4 @# Q! y# F, e+ a# O$ W
“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。4 y5 p" N. e5 f' [! f
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【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 + Q6 @# G" G* } 7 N9 W9 i5 a) O6 ]" n4 G ■指導力 試される " P8 [3 `( L( s: a# o. u% X9 v0 f/ G1 B& z) E( M" W+ J* W
1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。 $ z- s: g s1 @* D0 n8 c- `/ ]' ^: a6 D. }2 v
23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。, ^# g3 u# v8 L1 a' y+ Q, z# u
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「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 ' g$ Q G# j5 J) C
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「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」& @: {7 Y6 Z+ G/ P ]" n
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5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 . z2 L# j8 H6 o( W8 G+ i* o; ~( f# D* @! a5 y& M. j$ s: s5 G
趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 1 v/ C3 L0 G8 p& ]- w : n0 z% f, f7 P, z% ^ 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。; B: L4 F; D. s" |& R) ]
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一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。* r8 h2 n1 ? W5 w
6 G1 f& l. I1 D; M& E( }8 _$ j 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。' Q% T3 q! V! G4 U) x
$ ^0 u) u0 {& r赵紫阳为改变社论将学运定位为反党动乱的定义,打电话给友人、新华社香港分社主任许家屯,请他来北京一趟。许家屯后来发表的回忆录中指出,五月三日和赵紫阳见面,两人对情势的分析和意见近乎一致。赵接着提出四二六社论问题指出,常委中,乔石和胡启立赞成他的看法,问题出在李鹏和姚依林,拜托许家屯协助拉拢与邓小平有深交的国家主席杨尚昆。1 J! m% P' u2 b0 I
& K3 r+ k: ]. y! { 北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。 7 I+ e q; d: M! z, i) m # ~( ~/ v) H- d, m) V. [: Y0 Z この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。' A! u Q2 G4 v6 Y
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趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。7 r# O; d9 ]. d- E& L
( j+ W- X% F* h2 b H 学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。1 g Z0 W1 z# y8 ~& g+ Y9 p! x j, h
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学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。1 E8 S) s9 m7 b; v
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「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」& m" K6 {' I$ ?- h5 e9 f
. O7 o2 f8 A" U' F6 i0 U2 ~ 天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。 - K0 G: c; J8 |$ c" w0 u. {1 d) k* y4 I" X. j
張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。 3 V9 ?1 j$ U' ?6 I) [1 @6 G9 f& J3 I
その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。 " w5 B* j) z8 S: J- \" h( ]' m 7 A( a3 `8 y1 r1 ^1 M* i% h. G$ c それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。9 M! P/ ]" h" r
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趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。9 n K3 K( B# a' \( w! r
3 V e) B/ Y1 _, N8 `6 g 許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。 . b! E! y: e# L! K6 G3 E. _6 ^1 [ , s6 ?' m5 C7 r 趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。 7 P! x& L) ]. J3 H7 w2 ~9 l4 Q1 ?" G% g: r3 e
翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。 . @$ Z# W2 S8 K- R) T& }" o/ s8 i* C" g' s4 ?
「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」0 B6 F2 Y/ Z7 W# U/ J/ {
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。 ) l' Z! Y( O% b1 f6 n! ^3 T ! G' ?" X, ~1 g5 d, k 3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。 , _) r% x& J, y* s # R, C' ~. N& C: |) [ 許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。, @% t) x1 x ^0 b8 x
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趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 + o x# h2 o; u% d 4 e& M+ d4 w- I/ } 前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正) % T h; l+ H* \0 s" e- W) z/ x& y7 _$ [- X ~& r! ^4 I9 k
●=彫の周が丹, e; J6 j7 b6 l2 u& R8 U0 h# y
7 `+ C" [( L2 v ■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。- F1 `; W! M6 s' K4 \& j& _2 ^" f, E
3 i9 V& b7 Z x+ p- P 会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。4 h' L4 O! d: c1 _' u; Z
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「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」' \! W y0 y) q, o/ l# A
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それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。2 d/ Q9 b( W, [" Z( T, ?2 R
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トウ氏が言う。( E u/ {; }7 W
5 F" ?, O' k K: l7 ^' B7 l) m1 Z3 v 「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 $ m+ q& X- Y6 v1 \; m; A" s1 d% O# f3 a8 Z( W; C# z; C
沈黙していた趙氏が発言する。$ {! Q( `: [- f7 B* a. G9 ~
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「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」' Z, m" k& j+ [7 ^
! `6 ]; L3 T! u' n 「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。 9 X/ x0 h$ L1 z2 p; ?; u* l' {' F6 O& J6 j" T A7 j) o
その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。 / D+ ]* P4 p: a# `" L z( P4 ] ' d3 s; }6 b& F; u9 L+ z8 }. {' B トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。 5 D6 `# \5 z9 o / A. O! h1 I( e$ Q/ I( [- u オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。 9 E! K' [! |. V; a6 { + `# m, I; V1 |6 J$ v 賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。' h4 H9 g8 B- ^# O, X: O$ d
* t L0 {* V* J+ s" i q4 o6 a
趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」# d& J* L `6 C/ ]. n+ U( q( L
3 H6 U6 }, i! n; R& y1 Z6 X k 薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。, N; }) w+ B ?" h' y
; n6 I% Z* \1 j* [$ W% V2 o8 j: U 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。- |) J3 V# o, w+ Y' e* v
! I0 c8 A* G5 ~* S8 f* N( M 趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。2 f8 U9 M3 n7 |* J H" i# w
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「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」 0 P% _( i# N7 E5 ? A1 N. ~( p ' P- s( c0 N& T6 n4 q0 k 戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。; q7 C. I3 J9 [# J8 z) E) F
$ ?& C: r9 L' O0 E; R' { さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。& c( v# n$ l- X ^1 `# o; R" z
( _' R, D8 t5 W2 I9 M3 F4 k 権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。 ( R( _+ f7 g9 Q- `9 F9 q2 N 0 t; W9 A, i9 z0 f) n 秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。 . E# ^( t+ h& L' _( b. n4 y" u 2 j$ x6 N1 A5 a3 o 「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」( ?$ z& \& x7 `* }4 V
4 l( e! B# Y0 a e, e. Z トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。( H/ k6 F( g" W. P9 D; q
- n3 J, W9 l' A3 c6 n' @ 「政権は銃口から生まる」(毛沢東)7 a2 w4 |% z: @, I7 b9 U* C
, K- c0 v5 ?, J 政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正)6 b( ]8 I: u) ?/ N& R" k. O
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【用語解説】政治局常務委員会 4 M% v& p" a- g/ X6 w3 q* |( Q: H 3 b. _# ?) Y( V3 n. ~8 K* }6 G: H! `" S 中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。 $ R! B8 n+ F2 F. M6 u7 w, g/ u; P9 \0 u7 W3 W
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1 S% ~) @: u' G# R0 E" Y ; g Y! o4 V5 V+ S ( N2 O- @3 u/ s" { ' O2 s$ k, N, U2 n! [) b4 K- x* {- } A U `+ Z
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北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了' S3 v8 l8 ~8 A0 I+ b
中央社 # t5 p) u/ V# G" O " L8 p- z& P7 {! d 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。 1 J' s3 B7 G" r4 }) B: R/ D$ W * \, F5 [* f8 \& z* A 「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。 / r- }: y2 C" T; T$ R; H9 i. Q + E3 A+ b' }& E6 c 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。 5 N! O( l& p$ G0 y: r% z8 G) O0 O( B( ~* F
天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。4 }9 Y. X+ s9 s2 ]% V
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学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。) f" p/ y ^3 b$ K7 V# \1 ^6 B
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「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。0 p& E4 {' T4 H" E
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担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。+ _6 F* E$ y3 h( v% h; L
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【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令- J0 U t9 E* ?+ L% |: I; w
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1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。- ^% B6 k4 f% B3 U2 l
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「来るのが遅すぎた」8 z- C s2 P* S, ^. _ {. h
; L0 Q' J7 |9 m4 @ 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。4 a* t, t9 Q( C) n: V
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張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。 $ D4 S' z3 y( j" Y4 \7 x8 v: P5 ~7 K
長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。 % I) \3 q7 s P/ p - f& G5 Z# y' F; Y5 s! U; s q 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」4 o% T- T$ d1 U: I5 M
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数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。" n. L! y* l* ^) M4 h4 C
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「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。# ^: t7 n+ }' p3 g7 F
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文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。 ( M' J7 c* e6 q/ ~" f& x* C6 D" u/ G; k! h
「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。2 m1 ^, J7 O$ z% o
( a8 ^( x% H) c) F トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。 4 \$ H* r0 s& |3 ~4 S J3 ]1 x $ d3 I, V3 [) z9 B" t 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。6 T- t. L0 v& R& g0 @- K
8 {7 T8 f" }5 a( Q- m! o 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。 3 Z. r7 J) j2 @& A# V1 U) Y y" W e8 |/ D) s& Y @; o
「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」 0 H/ I# x7 Y- x z7 W8 U4 E6 ?/ l% ]
学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 ' ?2 l+ Z. _$ o, [0 M5 C5 m p! F" P/ Q
朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 3 M3 e# u0 `- \& N& E% _- O# Q+ e3 g
「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」* n# E2 L5 w; l3 L) o7 f6 Z
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楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 7 Q9 Z, K+ J- C. F; c9 ?. ]: K! X# f A- L j3 _' B
李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 w) u0 D) G r& O8 i+ B
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趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。" o) t$ |3 O5 G' C8 i s6 @9 K/ B2 z
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絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。 , n, J" j# ]* R) O O8 c, K L- { 6 I/ {0 V8 k- b2 r 新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正) ( [! _( `4 W0 [& h0 @, B5 q! s7 o! O7 ^' R$ m
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【用語解説】中央軍事委員会% Z& ^% d& E" p
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最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。8 |4 L% ?# d1 [7 T" o, V
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(2007/03/10 ) 2 Q8 g+ m! l: t: O- W/ r& y$ y* ?5 ^! A
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邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖4 D8 A4 R+ J8 c, B
中央社3 a! b: f9 K' z, H2 k
7 O+ E7 r# ]: @ _- e9 ?4 ] 日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。 ^% d2 L( o7 H/ L* Q! W. n
/ Q' q2 O: M2 _4 S3 b 「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。8 o( I; C9 C8 m) s
- j( b0 n3 ?7 H, G5 ~在此之前,二日晚在广场开始绝食的台湾歌手侯德健和北京师范大学讲师刘晓波等四人呼吁学生撤走,但遭到奚落。四人在商议下,侯德健两人已私下和戒严部队指挥官交涉,取得不抵抗下撤退的安全保证。7 x# A) K! i7 |& J5 ]
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凌晨四时半左右,持枪的数千名士兵包围纪念碑,侯德健向学生演说,公开和军方交涉的结果,呼吁不要再有更多的流血。但是,学生们的回应是一起怒吼,刘晓波等的演说也是没有效果。 3 n' o# A2 V* ^- |0 h! z6 W" p $ N- v1 S9 w2 s5 d2 u不久,出现数辆的装甲车,由扩大器警告学生退出广场,预告将使用武力。侯德健等提议由发出声音来进行投票,因赞成占多数而决定撤出时已是四日清晨近五时。所有学生完全撤退是在清晨五时半。+ G& j2 N$ \8 g& D8 a
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天安门事件的牺牲者人数有各种说法,总理李鹏在一九八九年九月对访中的已故自民党干部伊东正义指出死亡者三百十九名,包括十数名士兵。其中,学生有三十六名,大半是市民和劳工。 4 d2 G$ u; w# L # f1 G- T$ L0 z, T3 l) }1 f「天安门广场连一人都不准杀」的邓小平和杨尚昆的指示被遵守。中共当局重覆否认天安门广场的「屠杀」,当时在现场的记者也未目击牺牲者,但是,广场的周围有许多的伤亡者。- p; T8 Y6 h+ P; i" U
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天安门广场随后由数十辆战车占据,六四以后,北京市民也继续抵抗,不时传出枪声,各地出现抗议示威,外国政府也相继发表谴责声明。" Q7 R$ Q0 y! z
) d' J7 t' Y. I4 {3 E {# N邓小平于六月九日接见戒严部队干部,脸上浮现笑容,显出心情愉快。天安门事件后,邓小平在家里闷闷不语,开始重抽数年前戒掉的香烟。当时,他已八十四岁,决定由政治全面引退。他对自己说,武力镇压之外没有其他选择之道。! K( l2 d( ]8 m( x8 A
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【トウ小平秘録】(31)第1部 天安門事件 6・4未明! X! d, Y8 S% X) W7 `% d/ W8 h
5 ^: I8 Q1 r7 v# J1989年6月3日夜から4日朝までに北京で何が起こったのか。膨大な資料、報道、証言があり、映像がとらえただけでも、近代史上まれにみる大規模な武力鎮圧事件だったことが世界中に知れわたった。- N/ l+ B# J. l+ P& `# N
& E8 ~3 v) `9 e, S8 e. T 前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。 $ w6 U- g: Y# ?1 F8 a : c$ R# N1 u8 L7 [ 張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。" t6 h. ~7 Z8 A; h& R2 M6 j
& ^" q) q% U# x7 d( H4 F( U* l 第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。+ N' {" _* y4 @4 [/ C% l
& _" L1 [( e x. S8 h& b8 W 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。 9 n: x. K1 A$ {6 d0 O- Z ( |5 x4 g3 d/ x$ h* {$ u: o 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。 ) ]. t' T' O6 H" ]) K2 {5 G0 \7 \ % f+ p' y/ _6 u; g 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。 ; B: e; D& b- p$ m 3 T! U/ f. Z: h: e9 q1 i8 a2 Z9 | 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。+ f9 `5 k: i5 i
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天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。6 o$ r4 A& E9 D' l x
* s/ y- T7 U; C8 I& Z# m それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。/ w$ ~! q& A( d N, J# s
1 X# a6 i0 B! s: }8 m" {8 C" V 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。 7 x, H1 ?0 w" a0 B" X5 r( B2 S6 D- Q& T. \# a( S3 I6 q
学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。 - N/ ^; a$ m1 d- O) w [: v* T/ ^
「裏切り者!」 , k, x) m+ ?. x8 e) U' X$ J6 e 9 [/ U a6 j% I' i 「さっさと消えろ!」 % D9 Q/ }& N4 M: x, @1 n $ \3 o' ~8 S4 v ^ 劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。 " o% f$ j, S7 c. b; l' T' e M2 v6 s9 k0 f+ O" `
すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。 + l! b( ~# |0 y9 Z* V8 A * h. R2 T w5 B7 e+ G 天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。' c. G0 N4 e6 q$ l) B, J8 ~; H
8 o# V5 J. T" @ 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。* E) h, O8 M8 P- Y' S
2 j1 }$ M6 C4 h1 g% R1 x) k 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。 + F% s5 @, S3 X* p1 | + T, S7 }( W U% P& r6 f トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。 1 L9 Q, K! ^: e; y" }$ o; R7 Q' N, Y2 m" f# l0 j: j. _- O
しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。: C& m6 t% O5 s
7 A1 W X D( c) z |/ b【用語解説】人民英雄記念碑" F, A( J: h4 S5 T. \
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天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。 " q" L( v M# T1 A) C' K; Q7 p* f- P" D% @8 ?
(2007/03/17)! a3 T6 y- M8 ~( d+ }) ?6 E8 a
1 G- t3 y. G# R2 ]) w邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。5 |' y- @+ e% Q" G' D' D
" c4 U7 `9 k2 q6 w( y7 ?报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 6 d' n; M& ?9 `/ P' R) A o/ f
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【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告$ M3 ~# t: }0 T
; B9 S; C4 o# q2 b1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 $ r$ q3 Q& Y5 S3 v) U" t, X 6 z* {2 D A* @- Z5 M. P手法は毛沢東に似る- u3 ^0 i, q5 n( c5 v/ I2 K
7 c; ]8 a& s2 h しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。 ; {. d% U( o q" g7 W4 l' o- t% L' _4 W% [1 f
「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」+ c$ f' P1 z, x- k
* U3 p# \" ]; C# P 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。. G7 u4 ~% H6 i" Q
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陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。 , X- Y( X2 F) w% q6 D; H: V. V ; J+ f1 G; a9 ~5 V5 Q 講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。4 A$ |8 U0 y: x: P0 r; `
$ l V: c: T* H3 q+ ]6 J; K9 P トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。5 ~* {' h- \) ^+ D: T9 K @9 T
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このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 / ]( z5 {; n; ?' Z! | 6 @2 n$ I5 B/ x+ C0 Q! m 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。( W0 K4 n) ]2 ~+ H
1 \6 s. j. B2 }0 Q 毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。 n7 c# ^& h; k+ b8 B. |
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林彪事件である。 : a( z0 x3 K; D$ m C/ J ( x# b: O% j8 j X1 F W$ _. M. U5 D/ `% S冒険せず何もできぬ0 d9 ]4 o" `/ I- f/ l% @# l8 x
& P* Z0 a7 ?" p9 U トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。8 a3 K1 N$ L& y0 D2 p8 ]
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元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。3 l' z$ m. j& I
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トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 ! b: U; i( E# J7 P3 Q' [; p3 Y 7 F5 j* h+ Y1 G: W 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 - i, B# H9 P4 {$ S- D' f8 p : E- S/ w! p6 P 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。 * C) p& r4 ^9 ^. g% J- _$ k$ k3 Y# d/ ^- X
トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 ! P K0 E! a2 i& l8 \) ^& H7 W, u/ P$ }8 M$ W/ l+ Q. N
トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。2 V* h6 a+ {7 h& k2 \
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劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。! Z! r& u1 }& e% ^2 O7 _) M
7 t& h& t1 j5 c7 V$ @$ Y2 V1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。 0 P" T1 {2 v* y) D" j: [7 t( @! v9 y5 y" p2 l, E5 e! u9 d
軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。8 n. H5 e# R3 \* M
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米中関係の危機だった & g( y; |' P7 `; X- A+ S) e, C2 p$ w
前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。 : e) Q0 \7 H! U, `/ o9 }! H) t0 R. v, A
「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」 , a4 [: k4 e* u# C, k * A" q0 d; O" v' Y 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載); x/ W8 I7 S- w! J8 L' @* \- D2 Y9 B8 b3 f
" p8 h' a ?5 Q7 K2 A0 w 天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。: z6 x% F3 t2 [) E" ?: T# I
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雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。. z4 A' g7 G1 R/ y. I
7 H( }& n3 s: v4 l7 p* S しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。 `: ?2 Y/ P5 t6 E5 f7 b / c! Q4 l2 _( ~, o( m# O その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。 6 _; {9 F# S- g: U/ V R5 {- O/ G2 K
米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。# ^9 P* B' w9 O, i* e
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米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。 " J8 b7 a# V# l& Y4 N( ~ . O8 n9 S' K6 Y 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。 * q u, A% ~, P9 x0 v2 i! J+ r; P5 m) {" M& C
79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。 ' I/ A! }% C! r. L9 X' v- p, V* u Z, ^6 G; K
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弾圧も正当化される5 K7 H$ A3 [: e) n( \
8 m0 C5 n+ E$ t$ e 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。4 l8 F5 @: d3 y \: A0 U& p6 l
* \8 V4 G+ \4 }+ p8 T* [ 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。% Q, E' m' @% F% B) I% ^( v
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理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。 1 I4 U B5 i& y. }' O1 w& H, G, |: l% m
「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。* S) f" S0 | E7 M, p
1 v$ z/ v& f, X* _) p8 G" ~1 n/ c4 k そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 ( d/ T$ `2 X/ j3 e% K' B* Q6 m# M5 s6 Q% a5 V, H/ F
(1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。6 O( ?7 Q9 v5 z9 o; m+ S2 Y
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これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。+ x3 e% l2 z! [* F
- ]; c4 l1 ]; T 理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。% _- L) l2 B8 s) s- S _
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天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)* L Y, N% H: h4 h# Z2 ?$ R1 M
* ` Q# ]" I L( A5 @% s S! e. I■へたな妥協はできない ~1 y M; v7 C
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米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。1 v e6 [3 m3 }$ x+ w* q; Q" _/ i
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当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。 ; l9 o I: n, X6 K5 h$ X* v2 I8 y& i
銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。# ] c% _* r. j W
# q) v* G. m& \% T, d: _ それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。 3 M' o f8 V# w; k# F+ V - Y4 H$ u; T( g& b0 c, x; N0 g, P この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。- n- V+ v1 B Y# S
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その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。+ k& q; b1 I* [, c6 B) c
7 B6 e' r3 @' h; D 「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」6 T+ p w. T1 s: l
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しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正) % Y# t n" ~" G8 D# a ! `: n) A! u2 x4 d6 F ●=深のさんずいを王へんに4 e" D7 E$ z' k2 A4 b
8 ~4 C C( V/ h& {% r5 z( F6 ] & k' D+ q0 R# I: l; u◇# R& h+ l9 Y7 S& E4 d
7 D4 O: b/ w' \【用語解説】アルシュ・サミット7 s( D) L2 I" n( p
. A# o% C0 D# i# g w 89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。! m# w, \* p! V4 d$ C7 W
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天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月 S N3 |' n* \ x8 h6 F# f % A1 D/ X7 l2 l I& \* @( b # V3 @+ |& I4 d # v }6 M, E2 t( S4 H1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相+ H, E& K& \! M4 B8 b
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 11:00 编辑 ]