日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-15 . {0 x }- F! ~* u, F8 ]6 ^ . ~" Z$ q. J0 c& J【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。- n9 p9 F: T' `3 x) ~1 \0 a1 ~) {
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香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。 9 Z" G( j% c( L# ^6 Y: U0 N8 d# U+ R% w% Y, Q7 b
文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 % s) a$ S5 R/ \. w' M4 O" S' p" j2 ~0 o
邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。' j& Z. T2 e: S+ G
( T) f; q+ U8 r. y1 J% p3 v 邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” 6 M6 t/ B0 C5 }1 @8 q. L" { ; v6 }# E, S+ U8 l# W" n 邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 - c. J0 J5 v0 K [3 i: }- R
8 h7 }( \6 X. L& V6 u 与邓小平一样沉默寡言的邓林透露,正因为父亲酷爱花草树木,从小就喜欢画画的她也深受影响,后来所形成的风格就是花鸟国画。她告诉记者,父亲去世后,她为父亲画了很多不同版本的国梅,“他喜欢梅花,更喜欢梅花的个性。所以每当我画梅花的时候,心里都会自然而然地想,这是为父亲画的。” 5 T) y) }9 b& F. a6 r( i
$ ]; o; H- }. x 邓小平次女邓楠如今已是中国科协党组书记,官居正部级。这位从小就是邓家“小管家”的女部长,对纪念父亲冥诞的方式有着自己独特的见解。她说:“忌日采用什么方式来纪念父亲并不重要,重要的是他一直活在我们心里,我们经常都会想起他。我们一直用心来纪念他,这就是最好的方式。” ( G5 A( y& A. x _" z8 W
" ^2 J# I: E" M& u$ m 而邓小平晚年时候一直陪伴在他身边的小女儿邓榕(毛毛),如今提起父亲,思念之情依然溢满双眼。她说,她对父亲的怀念不会因为时间长了而减弱和变淡;“这种怀念是永恒的,化解不开的。爸爸离开我们已有十年了,但这种思绪随时随地还在伴随着我。今年是他离开我们十周年纪念日,我对他的怀念更浓烈。” ) k' d6 m' H* W! ~" U. g" @4 _& f$ i
邓榕曾经这样描述自己对父亲的感情:“如果问我们生活中有哪一部分能够剥离出来跟父亲没关,我可以告诉你,没有,不可能!”作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:56
邓小平秘录:杨尚昆承认64事件犯下大错+ u# l ^% T7 Q O/ v
; k7 a5 H" v- M+ h2 `日本产经新闻今天开始连载“邓小平秘录”,首先锁定一九八九年六月震惊全世界的“天安门事件”。文中指出,邓小平至死未对武力镇压一事留下反省或悔恨之词,但是,当年参与开枪命令的现职国家主席杨尚昆则在生前表示反省之意,承认共产党犯下最严重错误,早晚必须加以纠正。 + u0 ^# X0 e/ @/ [$ a: l; q' D 8 e1 o- |0 M0 Y, B2 u8 ^文中指出,二零零四年二月,暴露中国在前一年隐瞒国内发生的严重急性呼吸道症候群(SARS)的军方医院医生蒋彦永致函给温家宝总理等人,要求重新评价天安门事件,信中提到的新事实引起瞩目。 4 I1 K- s; a3 x z5 Z7 o 1 G0 z9 }8 P9 r& @ x报导指出,天安门事件发生当时,参与开枪命令的国家主席杨尚昆在一九九八年死去以前,曾向蒋彦永说道,党(在天安门事件的武力镇压)犯上历史上最严重的错误,早晚必须加以纠正。杨尚昆表示反省之意似在一九九六年左右。 " E: X8 j6 b" c9 z3 h8 ]3 E1 c; F2 S! v( u
当年学生运动领袖之一的吾尔开希(事件后逃出中国)曾向产经指出,邓小平的长男邓朴方曾为避免流血事件而行动。北京在一九八九年五月二十日发布戒严令之后很快地,邓朴方担任主席的“中国残障者联合会”有四名职员前往天安门广场访问学生运动指挥总部,指出邓朴方为避免流血,希望和学生对话,要求派遣学生领袖出面。 8 l% B: s9 L& M! u # d: G5 X8 \5 |% W' d“联合会”一名职员被留下来作为人质,吾尔开希本人则在一名学生的陪同下前往“中国残障者联合会”。应对的“联合会”干部向吾尔开希表示,政府势必动武,若想避免流血,将安排和主席的会面。吾尔开希是由于邓朴方表示想见学生领袖才出面,这名干部的发言与此有违,结果他未和邓朴方见面而离去。0 }( Q1 ?+ R3 ~4 z
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吾尔开希表示,邓朴方派遣职员向学生运动总部转达的意见应是真的,但很快地改变主意。他猜测邓朴方是判断流血已不可避免。邓朴方虽未曾作何表示,但或许已知道他父亲的坚定决意。" } j$ V) g6 P
6 g6 A% J) _# y4 Z文中指出,一九八九年六月三日晚上至四日凌晨,中国戒严部队对学生和市民开枪,造成三百人以上死亡的事件震惊全球,中国领导阶层完全孤立,改革开放停顿,中国陷于混乱和分裂的危机,这也是在武力镇压扮演中心角色的邓小平的危机。+ W9 W: q7 Z5 F, M6 ^- u
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中国后来的发展使得事件后的政权都肯定邓小平当年的决断,至今中国国内除公式的见解外,不准谈天安门事件,要求对该事件重新评价的人士都被置于严厉的监视下,当年支持学生运动而被解职的前党总书记遭软禁至死。一名中国老记者被引述指出,事件遭全面封锁是由于政权内部有看法认为大量杀害人民是作得过火。 ' u7 V3 ?8 c# ?( k7 Y2 L, o$ ? r
文中指出,天安门事件后,中国虽经济发展,但为贫富悬殊和腐败的蔓延等严重的矛盾而头痛,该事件是政治改革受挫的主因之一,胡锦涛政权背负着邓小平留下来的正反两面的遗产。3 D' R5 D+ U; x9 S8 g
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" E3 R2 E% E% k$ S K# ?5 e日本产经新闻 1 T6 o' K- Y, {0 S" d 8 h( \. O% \, e' f, Q + n- _( i7 S: K/ [# z【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興 ! I0 ]& X& i5 @& I8 b; ^+ C; I/ @+ ^6 I, u5 r5 p
トウ小平(とうしょうへい)氏の死去から7年後の2004年、中国各地でトウ氏の生誕100周年を記念する行事が催され、大量の文章や映像が公開された。トウ氏の波乱に満ちた人生や人柄、思想について、さまざまな分野の関係者が証言し論じたが、決して触れられないことがあった。 - v$ c4 f* W. D* [8 g 8 r: x4 p9 V& ?7 g/ n q* B9 @: U5 R& g5 g7 j$ A
武力鎮圧の残影 & Z+ h: e. E! ?0 R Q. J$ L% [ k
. R4 T0 e7 a8 q3 Eその年、15周年を迎えた天安門事件である。 & f+ B9 @( e9 b& h& N $ z \7 t2 t8 k' B" e9 Z 1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。' Y8 j, W, @7 c% K5 B
' w. F$ |, C) x1 X! T3 p' U' _ それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。2 W* Q7 Z& j% n) M2 R
, A d. S) V) C7 k( s が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。 B7 z4 ~$ w) U1 ?
m0 m4 @" t4 _ 04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 " e0 A8 T" e1 B+ q$ Q5 l4 V2 H( k+ o
「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」9 p7 |4 y2 {& t* H" Z
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同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。 3 h, N; f1 K6 Y% } ) a* B& R. x4 b" ]( t9 b5 r, ^ 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。+ i+ J1 S1 }# g5 O
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天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。- i; k' K' X' O- J6 p" l) b' ?
9 M/ E! I* O+ x: m なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。) o! ]/ F- y3 P3 ^: N& Z
7 }8 C, f- J& S 2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。( B. A5 W+ ^) ^% z
8 }4 X0 [2 T. z9 k3 p' T* q2 w6 z* n 天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。 / B+ a+ x! J. n% R, b, @5 \" k9 C K
事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。 : l; G k( f1 I0 @) Z4 a& u$ t % \; h- [5 E0 }) `; i: S 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。 ( t% `. x) o4 B# u d0 U" i& w, l0 h
職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。 : t$ ]. e% e. ?3 R- W+ d; [ 2 ~9 Q$ A7 e# }4 C4 ^$ E' n) _ 応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。# h. G( f( J, T5 y _7 H
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ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。8 p, g7 B* V- \4 r& \& k& k
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天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。$ D( u1 _& n; y U! {
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事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正) 6 R6 ^# M6 M. g( C. K y/ y& O3 i) s z& d! a9 Z& m, r" d
$ D7 s# O- j) N' g 天安門事件の中国当局側の呼称。事件後しばらく使われた「反革命暴乱」は国際的イメージが悪いため、90年代初めから、鎮圧が完了した日付をとった「六四(事件)」が一般的表現になり、当局側では「政治的風波」が定着した。「80年代末から90年代初めの政治的風波」は冷戦終結やソ連・東欧の社会主義崩壊という国際情勢の激変も加えた表現。) B9 ]% ^- R+ ^8 a
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( A: t3 _+ I- O- m' L+ U 序言最后指出,邓小平渡过战争、革命和斗争的中国现代史,对他而言,一生最大的危机是天安门事件,天安门事件和文化大革命在不同的意义下是现代中国矛盾的爆发,也是重大历史的转捩点。; H9 v; Z' o, K
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【トウ小平秘録】プロローグ(1)改革・開放の総設計士% T7 Y3 p$ ~5 w' @6 ?8 r8 P; W
- y" |5 Y. e% i2 Z+ q* U中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」トウ小平(しょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。. |3 {4 \0 q# U0 d9 G! a
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毛沢東の轍は踏まない . C+ d! I) i, D, Z" `) \4 n5 u 8 R* g) j* P( G% ^: w9 X' }死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」による措置だった。書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。 7 o3 L! d% w5 y# S" Z' z ; Y2 O. j2 {" u( } 合理主義者のトウ氏らしい遺言だった。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠り続けることは難しかった。0 `' a, d1 D. q- w2 ]5 V
g; L/ t% T$ s トウ小平氏は16歳でフランス留学に旅だって以来、四川省広安の実家に一度も足を向けなかった。49年の新中国誕生前後は同省を管轄する西南局の第1書記を務め、中央に転じた50年以降も5度同省に赴いているが、家族でさえ89年に三女のトウ榕(よう)氏が訪れたのが初めてだった。2 k: E% x8 a) k% I1 S7 ^
0 r! j0 ]7 m& {' ]. N 仏留学時、「二度と戻るな」と命じた父親の言葉を守り抜いたとの説がある。頑固な性格から出た説だ。 $ ^& k# O7 j7 Q- B2 C, w U6 f* K ; M: [. [$ x; X3 d+ ~ トウ氏は個人崇拝を嫌悪、「公平、無私」をモットーにし、出身地の利を図る傾向を批判してきた。だから地元政府からの故居改修の申請に同意せず、各地から相次いだ記念館や彫像を建てる申請も拒否し続けた。 8 e! {- d& T8 W; l* \3 e$ D3 @* c' `5 A, }: ~5 n
しかしトウ氏の死後、故居は修築され、広壮な記念施設に変わった。彫像や記念館が各地に誕生、江沢民(こうたくみん)前国家主席が看板などの揮毫(きごう)をしている。! R+ t7 M3 F' i* j6 |1 h
0 u) A/ Y. _# B* S6 ] トウ氏の生誕100周年の2004年、胡錦濤政権は盛大な記念行事を挙行、大量の文章や映像が発表され、「偉大なマルクス主義者」との賛美一色になった。一党独裁を堅持し、経済発展を図る正当性を訴える上で、トウ氏の理論と名声は政権に欠かせない。 ! R5 p/ b7 s! L+ D5 M6 n ; o5 `! {. P" f: E' D% t だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。* p. Y) X+ g" g% I2 B. N3 o
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トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。 2 B/ f! Y. N! P! Y0 R* K# K. q0 x: }$ V% z. k
共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。- G( ^: j7 h$ i3 _1 ~( E
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改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。+ m. Z- m# O: u! i7 f% Q
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豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。 , |" z* D N6 _+ `; H5 ]3 c % ]4 r( V1 @& h+ c 9 W# W% l! W! ?! K+ ]# w" Z8 g! t9 Q/ {! I" c: W) m5 I
矛盾生んだ「先富論」& j& k7 _$ |) i+ V% o) A% D3 l/ R
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トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。" I4 a; w' C5 A6 P/ {0 {9 X
0 ?' u# v5 I6 e+ p1 v それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。 + s- ]& [+ O6 s" f }' z. ? ! F3 }* _# ^7 v, g# L. J: b2 u 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。 - D3 `4 y9 ~6 }( ? . z- P8 q; e! ?% ~' L トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。 ' Q! t5 W3 J1 y& X0 W + D9 d# d8 h" C8 ` 「富をどう分配するかは大問題だ」 8 }5 c6 S3 u* Q, ^9 j4 w 5 |! U) z$ ^, L' Z3 e; `) C, X4 k 「この問題の解決は発展を図るより困難だ」) F! R2 M1 Q d n2 T* H
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「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」 8 N: N p7 W4 R6 |5 w" z1 g- ~ A, f ) E l' D: _2 h, J0 t8 O# z トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。; p6 X/ U- G5 z/ e2 ~3 A
4 h6 e) R( q' t/ Y& Y7 G/ ` トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。 ( o. m5 Y+ Z. Z# M ( B' Q% K/ I1 N, k1 Q6 Z9 m 経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。; ~( ?4 f% }- d% K" e F& e
* u; t+ ]* \, q" k 毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。 + ]9 a, X' g- [) [ : ^4 h& R' c# T$ N i) H# A 中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。/ M' |- M5 m: D$ v
4 Z- F; |% o/ k: l9 c トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。 % X! R% _) v2 l5 s4 [* S. o% a0 s4 k5 E" Y6 K7 h# `+ T4 k
(中国総局長 伊藤正) ! v6 x6 T' ^; v- x& T5 C# n, \ b( K) z% C3 {$ K, e. u ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。 5 }. l. H1 q% W4 C5 C7 P% `0 _6 H1 R% }
■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。( R" t: j0 V& E% |. W0 h
邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟; h5 B* p' R4 j7 g( D2 x9 i; E
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日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。+ }# C' P# m$ j
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文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。: \/ u2 S8 _7 B! _. b# E$ g3 F
邓小平秘录:方励之公开信引发保守改革对决 " u7 q. ^2 F+ C/ ~) H3 p + h. l- W( [2 \8 H 日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导指出,一九七九年三月魏京生遭逮捕事件对邓小平具有特别的意义,胡耀邦曾要求不要对魏京生处以十五年重刑,但未被邓小平接受,方励之要求释放魏京生激怒邓小平,使中国发展形成保守派和改革派的对决。 ! r( a2 K9 [5 D8 Q : x; e. e0 Q& R9 J# Y3 R1 q 文中指出,邓小平时代的重要特征之一是遭文革迫害者占据中枢要位,批评毛泽东时代的错误,由文革路线转为改革开放路线,邓氏为夺权有必要打倒毛泽东谬论。在理论斗争中最活跃的是胡耀邦,知识份子在一九七六年第一次天安门事件时不是系狱就是毫无力量,但在一九八九年的第二次天安门事件则扮演重要一环。3 K% a" X) c( ?0 s
. a6 H8 A4 \( y4 W 一九八六年十二月,天文物理学者方励之由于煽动合肥学生示威罪名而遭党除名,但他仍继续推动民主运动,一九八九年一月发表公开信要求释放魏京生,这项要求激怒邓小平,次年二月老布希总统访中时,中方阻止应邀参加的方励之出席,原因是魏京生事件对邓氏来说具有特别的意义。+ {/ t9 \9 i8 f+ R* A6 O6 w) C# c* h
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胡耀邦在一九七八年开始攻击毛派理论后赢得年轻一代强烈支持,发展成为要求民主化的大字报运动,邓小平最先是支持大字报,但魏京生将指责箭头指向邓氏后遭邓氏下令逮捕。秘录引述目前住在台湾的胡耀邦前智囊之一的阮铭的发言指出,魏京生被捕时,胡耀邦并未希望重罚,一听到判刑十五年的消息后大吃一惊而追问邓氏,但由于量刑是由邓氏决定,胡氏毫无办法。, x1 s! H. v& D& h- p5 l* k
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邓小平政治论理精髓的「四项基本原则」是在魏京生被捕的同时发表,核心是「党的领导」,亦即坚持一党独裁体制,攻击邓小平是「新独裁者」的魏京生也可说是导致邓氏「四项基本原则」的产生。! d' k- A* G4 v0 d9 C$ h3 {! X! i, I' P
' D/ g& P& M& X) f( U! |5 U0 \" E7 X 方励之的公开信刺激改革派知识份子,要求释放政治犯和民主化的公开信接二连三出现,而在此之前,令知识份子提高警觉的是电影纪录片「河殇」问题。这部作品揭发中华文明的封建制和黑暗面,要求改革,六月中旬在国营电视台放映,引起很大回响,但进入七月,开始出现反弹,党宣传部虽驳回再放映申请,但赵紫阳大力称赞作品,默认上海等地方电视台的放映。 2 \& E0 q! v6 z. ?; ~8 E 2 r$ z6 l/ f. s. @/ B! h6 y; Y 赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。8 Z9 l2 a* u6 b! v" o4 W
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中央社8 h4 \8 i8 }4 d. U
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【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件% d( L1 F) J: Z" Y
トウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。 0 U8 t- u) ~& Y' @" N7 s+ N& d! z: c! H& e+ W# o k
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釈放要求公開状に激怒 4 Q' h" v) P! a& r6 n* Y簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 ' I5 N1 u& r6 S' @5 v/ ?3 @
トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。( L, @$ @1 {+ ~9 D f1 z! [- H- i
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この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。0 o4 K) }9 F- T! D* ]5 C
" A9 n! C0 f* B 第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。! ~$ C. z1 |! H- V
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前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。 " p9 O6 ]2 j" d% c3 {: r- I6 @0 B( |8 ?) A5 t* @
方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。) g0 y# d; K5 l/ Z4 V
, o& z& }& ^1 |$ |+ T 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。: T# ~" n: k V. \
$ d7 K& ?! G0 E; y9 E! @" M! Z# I 方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 . Q. a/ G7 f: k& `6 F$ R+ H6 s! o $ j7 v) w# k3 q- a) ~# n( c/ T攻撃の矛先 民主運動へ ' J1 n. _6 W9 ` 胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。6 ?8 J4 M" @6 q, ~
ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。: o4 E4 h. Q1 E( {' E) U1 l! y4 W
1 v& t2 ?4 L2 T$ P* V* y% D2 j7 R 当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。 3 a3 A5 H0 Z. G" f, U: [ ! M+ d, \2 `: e* l' s; X { 「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」& s3 M) z' ?5 a; g9 w3 p! W# ~1 s
P$ L" |) w1 g( R- `, l トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。/ D! P) f, n, {- f
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天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。7 S" z' Y. B/ F2 a8 s6 o' A
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それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。# S# {+ d* L/ J* S$ j7 w
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中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 1 ~2 b9 W1 U+ _: z8 ~7 a0 {4 q. I& U+ ^. y7 P# I+ {3 t4 s8 ?& M
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。 H, _) Q2 ~1 k/ Y
% c/ V( B- x. Q# ~# W- r/ W これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。& S1 I7 u2 F, l9 i. o6 m
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中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) ) [; b$ A% ~5 r5 H( E, K* a' u◇ * b! e6 c$ ~7 A& ?! L, B- A【用語解説】文化大革命! y W+ U$ g; D! _: O8 k
) Q4 N' z- x$ x; z) M. S$ P その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。, R) ?. J, k* c4 O. B9 y4 [
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国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 : ?+ ]1 K6 u% a5 P2 v% j& w( c5 k3 |" G$ M$ s
前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。$ f, e& H: |! u9 L1 ~
2 o# w' S. M8 i7 x- r" ?) [/ q 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。6 \1 a: I* C; a# b) [
; S3 {; e+ ~, d- G5 J' Z5 N これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。( M+ ?6 i3 c- R# w$ k; t
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「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」; t! Y" A: Z7 \; B9 H
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「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」$ Z3 ^3 L/ x- _0 r0 L
$ @2 G' M) f+ C3 P/ @ 同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 : Y. Y- ?8 `% H$ ? ' s& \2 J& j B5 @ 「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 + { z; h8 o0 L & V$ r) }+ x8 I Q. S9 V 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。& b! h. U5 v4 q# l1 ~# Q
+ m7 H! g) ^8 d! M) K ≪胡耀邦は声上げ泣いた≫7 }+ C% I4 b' O# F% q6 y; C8 T
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)( e% [- b% c* E) ~; R
+ ~. E* H# h5 ]* ] 胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 9 Q: \2 e' U6 T, N- V0 a" Y6 v; k' A& t" Y/ n! x1 W- u# R
胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。7 t( b4 T/ r+ l% U! t' {2 t
$ J; R- I2 a3 H 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。9 z3 I5 z$ u9 j0 Z
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その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。 9 V! p! s( P0 d5 @4 N& B+ C# {( n" l6 D1 L) a
「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) . t$ T3 j2 R) v, m- \ : h- K- U, O5 m5 a. F 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 z, w% I5 M; `5 ^ o; I! |/ y) [% g1 p9 H8 r
「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」), Y* h: Y! @5 {% `- W7 F
, I8 ^( Y0 b* } 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 f8 V6 G% ~: K8 l ' A$ b6 X- H+ n: u: Q( c! \! ~* L% R それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 B' }) ?7 O0 e4 Y. |
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「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」 , k+ s1 P% v1 D6 X+ L# i6 d( o8 D9 d
採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正), ?4 C5 b5 x4 ~& Z2 D
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。; Y" _- a; G+ }3 m5 o0 [, L ?
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0 v3 t G* z4 @ - u9 O3 V; b( n外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) 5 a+ D# m$ z% V* ~" Z9 Z: N, O: o' o% p6 Z ^0 S' T/ z
7 D. g' _8 l, L! \0 |+ c
. d" S( D$ U2 B8 O) A* I 2 s7 q8 L$ Z1 p1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利 5 V5 e/ y! C; }( S' M* c 8 M: Y9 R3 S: m, D, K4 H3 g' Y: U# t+ R
根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。 , B; F8 M/ t) q5 M, z4 b / N ^* L% c, O5 Z- a/ a. B, }; b 文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。2 b5 \. _. W t- U
* {+ r8 V# _9 o# D 当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 q: Z; T5 `0 B- V* {: _8 x6 o) b0 `7 E7 U
秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。- o& }5 j" _1 `% |5 A. \
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担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。5 r' b% H: b) |! H9 Y
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李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 ' E8 j: u# U4 t& K* T1 ` " H5 W1 o( d; ~. ~) ^# I 在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 $ v, c Z7 o3 \' C7 C# ~/ ~+ P( F* _; x
【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない) t! o" i5 w' i2 a0 f
7 a7 q A2 l. h& f$ a3 y* H胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 9 h4 S+ q. }3 C2 k9 M! ^6 P& Q, i9 Z6 |& i# K4 l1 L* u+ E" O
その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。+ m) z B: o+ P8 z, G! r
( r1 q, f# i0 @' {) W" g6 ]# \5 K 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」 + n2 D$ [8 G: g$ c$ r& B% N' @/ T: w$ U
弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。 $ f/ p/ C# z( e; o/ r: ^9 H3 w% k$ ?% ~! u4 i9 G- S4 Y
胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 3 q! F, r* W# ?2 F# u" z# F! c- u; O& v) H, [! t9 y! \
かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 1 F3 L, _& }9 A* {( |1 s! [5 {+ E2 b/ F( R7 R, t& V9 s
朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」 " k7 j8 u) _- } V8 |9 ^) u $ B5 w2 f, W$ H/ P4 G トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」1 P" ] |+ m: Y) ]+ K
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しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 $ A. G* K/ x/ c0 b$ C- f. ~2 E+ B% \+ d7 ~4 h8 s, q
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。3 w2 K9 s& a" d2 {% g6 R
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「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」) + y0 ?* |) m* M) L$ E3 H4 W8 j( Z 3 }. h2 P& c6 V' V0 E. W 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。 / \6 z2 E6 v- `- Y& Q( ^" b9 i. F5 Y7 J5 Q4 N3 T: J- n1 {1 A
「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」 ; f/ P& \2 e) A& i" _% @4 B " S! n9 r& p3 ]8 S1 c& |6 g. b それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 ! X' I" ~. g7 z& H6 W* g2 o u# v* C& F1 M ; ?, P9 X# D9 w* m 《ひっくり返った党人事》 , T* j/ x3 J5 a2 {5 s * K) n( X- z) N# F* c8 g7 U 思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。# r9 z9 b. V: [9 Q
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保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 ' P, l9 c) i9 j) A8 _! Z+ M" N , q0 r. p% r( t# X2 U: I3 f: J 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。; O1 q0 X+ _( |$ u/ I
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10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 ' d" J0 }/ k( W1 G" r( \; ]& g: d( z7 J
「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 ( V# L' H0 \9 q: C* I( ]4 M- E, d8 l! p8 b' T% I
その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。! U. O9 t+ G& w9 J' L% D, B
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趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。- a5 Y/ j7 p6 u5 s( l6 O
" a, o. v7 Q% J9 ^1 k5 L7 e文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。 ; B u5 }; w4 ?1 v9 ] ) `) {9 Z1 a/ g9 T邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。 4 f* d& r# C, l1 c% U+ n: Q2 z$ m! g2 {* t7 b! M/ j, g
第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。9 a1 Q+ p" c+ I2 r. G' w* g3 U
& i- l+ H$ i2 g# N' p" F1 G邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。 & o! Z, V e0 P/ P9 `: J9 n9 d( y' q' w. c
胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。 ) e% w6 d+ r. b6 r& ^ ) e) K/ w6 @# e8 F邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。 , N1 C) _ ^ s: @% f: t) D: b" n2 C' r" w! U+ U/ l! w
由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 7 t8 `% Y# @) z7 x. S( H5 M$ _( H, r& K
【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 ' b5 d+ `0 X4 p) S- c5 L" G
「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。 % E8 x( W8 w4 x. M: p+ }( m4 `. N- b( T2 z- M8 X* H* u
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改革へ深謀、トウ・趙合作) B3 h* @" {! K
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対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。" e% p% ?0 w/ I5 a& T' |
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党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。: r7 Y* c: r9 e: {8 p
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トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。 3 w% o$ ~# v/ g0 v6 ?( b* m" l/ n + L& ]/ o+ H7 c; R' k トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。 $ @' e0 p" D* M9 X- C2 D$ ?- ` ) N" K% a6 Q* I( W" ~ 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。3 p% u% I! ^+ h v) W+ C
% ?6 U o3 P- i: g, O3 L( J9 G/ P6 W トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。/ A7 t! O2 y U7 l: q _
. }$ z2 B8 T3 ]; p7 d" E. o その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。* Z H4 b. Y# v1 q: z+ ~
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≪長老たちは引退せよ≫ 6 v6 o: D8 o1 H/ r% I9 r 8 _- S# ?4 `1 Z$ L# X$ o) h4 G 胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。0 T- f1 a' l; L" g" }) E
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トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。+ `3 N% J# I( _ j
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「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」 7 D3 t6 V/ a' ?3 k; J ( p& v5 h5 L+ s. ^ 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 . L. T; M* y( C! B; f ) X; l8 q; J5 j% x: T& X6 \' O, e 「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) 0 s1 N F- p D8 z5 N+ Y 8 Z9 p, ?8 h+ J' l U* G+ U 13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。" J. I8 g6 e% A/ ?
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新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。 ( L( i9 k- ]% B1 j3 Y4 j/ ?/ w; m+ C1 D5 g! Q
「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。 1 t( Y5 }5 N( Q2 h / W' i6 E) t- ^$ y2 f これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。( b. y3 u. f5 _3 {: \0 ?8 ^' |
' \3 a, Z4 x5 u8 h6 J+ A* h; t 「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」- w5 K0 O6 A4 D; E7 i) l; w
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トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。& @# h# `( G8 T: f$ p
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トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正)5 T y8 l4 {4 K
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# m& N; A# Z( {8 h& q* }) t 【メモ】% E/ Z( l) u" P& ?# R0 v
0 ?& j! b0 ?7 h! n! a, n 中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。& `4 A2 G& i- h3 w/ U( g u& q
% n5 O5 n2 O6 K0 X: N 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。" o u* {/ n9 s% S+ g
{! _ `, W$ {4 N; A$ U, A 中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。- F! s# o& C. y: U; G6 E; H
邓小平改变了整个世界 ( a( s' j! q- U ( n2 V; m% k+ `- B+ e: U' c' i E* S英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 5 F) c @/ n) T* e上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。; ?( p# X/ O1 S0 |6 t
# \$ i7 b' U. S+ e3 \. t, Z, m 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 & Q$ H. j1 h! c+ X5 {. a( ~: A# R' F
( d m6 ~% O4 Z# c3 h 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 # Y, t8 V- l7 C1 ?, X
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邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” : I- e/ J7 E; y( [$ J
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生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 4 \ m V+ }; M8 I6 ~# S% X: |; [0 M9 I2 \
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 # c& z7 i2 S! i! \2 x! I: C
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她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 $ \+ @9 F; d/ U( j! ?+ Y7 C0 Y: C7 U' o7 H: w5 W3 k
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” ! G" r% m; D/ x+ W: _
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在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 ( h8 t4 |. r6 o$ {1 ]. h' W% ?, k/ S9 u: C3 \3 i/ M, V
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 5 I! f' k( J) D; L
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香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”4 H9 ^* O2 L7 D n' E
( A+ c+ a1 H2 K* Q k. s: Z* k$ @4 q$ o8 `9 n 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 9 r( j, p( P% m0 V* v3 R/ B
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在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 8 m' \1 L4 s( C0 i2 R; P" A0 F/ [: p% y% E; ~# b
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。2 t; p4 o8 I; Z: U1 e
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China honours man who reshaped world' Y5 e2 {3 C3 ^: r3 M0 w
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. * _4 M- O: ^: B3 h7 ^4 _8 h V7 x& `6 d, Z+ p9 y' ]5 wChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 3 P: `: q D5 r7 u. u4 L" C* K) h+ f2 M; d" e, ~ N% u# D! a J
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. / b% i0 v7 s8 ~" t" I* d
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His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. / F) ^& ?/ i; d9 K8 T" E+ s
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” & M6 t1 B+ P- b
w, t' b2 @0 RMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. , {" Y/ ]: h" C, f6 b7 [, Z - ]8 [4 y5 [' ^1 k* l) F, v, l7 nMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. . K! ~. e2 b" Z2 c4 q# @
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 6 _% S9 J! j& a7 @5 ~: D
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Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. * Z" j7 m! {; ]/ ]# N# J" f+ u' T) d3 m/ i$ }) [! z5 ]
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. * F" h6 V( |) Z$ m8 o! D$ Q6 {
% F3 X x. _+ w& r) V1 @David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” L$ w7 Y" i' I' t $ z i3 q% }6 a& v7 _& S e" r9 iHe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 7 ?- L; B* b7 |/ Z% s; Z
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Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 0 H7 a0 V/ S2 h2 s. K V
+ v7 J1 U$ g0 F' aMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 7 ]6 p- B$ l! |! D; N ! E" _& G, s1 g: \( W3 i7 |But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. $ U; c ]# Z) i c i4 E; R) C* V/ ?; L `) x4 Q5 @: E$ W% {
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ; H# K8 z2 d% O% m) Q! m. q7 b" ^% C6 r8 X6 L6 W n0 p. r
Long road to riches * B% J2 T0 W7 v$ d ) b& b5 D9 {* y: f1 d0 aNow $ r; L" c9 ^3 u
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Population in cities: 550 million 3 u+ E/ B# J) G; F: f! v, x V7 ?: G6 i" Z \3 v
Gross domestic product: $10 trillion : z, z, A( N1 W+ ]8 n7 m
3 q% p2 {; q: u/ | ?: b
Oil consumption: 6.5 million barrels a day 1 h# t' A3 R1 ~: N7 @
* i0 X% m" J. p5 P* bExports: $954 billion 2 m) f6 m& B" x Q1 p! _( N
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Population below the poverty line: 130 million + u$ b) x2 o( b5 f
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Ten years ago. r: }$ n, T! y5 r7 z* F
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Population in cities: 370 million - X$ e( K' f4 B* Y8 _4 \( t6 P 5 ?: r9 _( b8 a, ]1 _- }Gross domestic product: $4 trillion 4 T/ E, c/ p4 e& \( t
* u1 A, e* |/ COil consumption: 3.9 million barrels a day ) [! a0 I2 A* x: D+ C: I+ } 2 u: a0 ~( H2 X- O, _Exports: $182 billion 2 c3 J P1 y4 B6 X5 [
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Population below the poverty line: 120 million 2 K0 y4 Q* f) A3 x; B ) @! Q' T2 d/ S; lSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies% A5 H, N7 }; f" n F
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“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 K! Y0 {; @( C6 y$ `- f* t" Y! k7 Y
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治) q- B7 M" Q- [. T
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(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”5 @9 L: r: x6 U1 e8 T
C) C1 V* }: d- ]& o9 J赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 p1 v, W# r5 i$ F! }3 y5 g6 G " F. J% |- A0 v赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 : p( b9 |0 Q' C/ U/ M9 L9 L1 _6 z |/ _' V% U
鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。% I; D1 c8 C& C+ ? s* W
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鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 & ~* p9 [& D% Z4 t: y' | % [ G" A; Y: [赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 8 }/ y, V! Z8 } [; u3 V5 K! ^+ }' Z
一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。! a4 B' J& B* ]8 \, U
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未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。; W3 M% L: f& |2 T
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【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 0 c1 R! ]3 s. D) a, u % {8 a* }, [8 t趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 / ]4 v% |+ E) _9 W: D, z ! S" f4 n" o0 k. P3 F8 M- y 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。9 G* `$ U, z; l& U, \% |: W2 e9 W) l1 p
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「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)" N4 e* h' i+ P! h
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この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。# { Q$ h0 D- u6 K) D: `
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趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。9 h5 m7 K6 o" m/ M8 \
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中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。. q+ `& _$ ?, F8 _4 P: T
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しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。* q6 H5 d$ V1 T2 P- M8 K% X
+ _1 |: U$ y$ _- |+ Z: L この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。; V# c6 I* u2 @3 j
* o/ Z8 [6 q( {5 a9 } ≪パニック買いが起きた≫ ) {0 H0 b, B+ b 4 C3 {! p4 ^" |; w! n6 j- j ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 6 G _' x6 H/ U7 n' d + c* K8 ^* g' ]" V 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。 6 g8 H# x6 b: Q# |: t& I2 g# L5 S, ?& o* V
「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏) ; d- F. C6 a: A) Y' X% p: k- Z" A+ J4 B$ h$ g' b0 q2 C/ T
トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 # ?0 W" C& z J) W6 P / ^. ]% l5 c; S 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。' J3 t- [# L5 w
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5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 # O R; C2 Z, A! y D8 Z6 ^4 _3 f' N6 k( D
当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 ; p! y. w6 \0 e& p$ w; Y 0 M5 \! P4 j" l7 t; O2 j' l$ E その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。 4 ]/ S2 d) P! }% N2 H1 m7 y/ P& i
ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 n8 ~4 E L' f" Q. v
A' m$ o- n, R4 L" c# `2 S; m 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)# P# p) I0 n6 m$ ~! C& K
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【用語解説】3自1包 5 y' K/ B8 j7 q. \; ?% r7 e3 a* t Z 8 u5 V( S: b# U( N$ M- m+ o 自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。5 K+ Z& @9 C( K
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$ j+ {" {4 S% i: x! L: p【用語解説】北戴河会議 s H ?6 j9 _7 `! j; t8 J: h N& v3 [: K I# b# r0 H
北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。 & E5 {, A( x+ i i, I i8 S# Q, X' S; c2 w3 E; @' b+ {
●=彫の周が丹 1 @, z" D1 ^5 \+ B( w/ t& Q7 U f/ q
(2007/02/22 )
. r$ c3 S+ i3 X5 t1 S1 d; Z但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。 # |% {0 z x) X, }0 V( {, j' r4 e
产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。 3 p7 ~) O1 A% C; \, H6 l0 S' O6 R/ ^& g& y7 b1 X* M4 q+ Y* C/ ]
秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。& d) }9 l" ^& [" f- c0 R5 M
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秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。) v m3 x% s) o* C+ j3 J w
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秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 0 R9 M* P. b7 C; Y0 L. J ! l" d, P p& N' }0 A- F秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。 - S0 o/ `) t6 u: j& o( \% L5 ^8 R9 S & u! K$ ~" [/ h秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。 & i$ D3 j! ` B s* a3 }; f+ i2 U q4 p$ Q z( |
【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。 + Y, W- B9 z# i" G5 Z0 K- m1 `% n8 y: D1 u1 x! `: J+ y8 i
その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。% ?5 W! k. ^& c9 D2 z; j
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& ^7 a5 R+ B0 n% P) \「中国は乱を許さない」( _( t3 d M. O0 E& i
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。" U/ p; m2 U, u/ g' m& Z
8 g9 j+ M1 w3 X! V# @$ } 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」8 o+ s, f. x A" Z- V" U) d, O- ]6 P
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「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。7 {; U: b2 D4 h+ z' |4 d
- \9 L5 \4 q, E# Y' C, ^ 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。 x1 }) U/ @$ I" `0 H7 g
( g) d9 y3 d0 @( ~, i6 H$ { 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 . c- S/ L* x8 e ?8 d% N: r7 r( b 3 t5 ?: V" L8 m* [4 A1 w 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 , B6 u" V3 L% k% q0 L2 @* H2 S: u* {1 a& g+ \( f
私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。( T& }, Z/ K& }! H
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それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。, j1 A N ?" q, z
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当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。 0 n- m6 S( `: E( T - [$ C4 j- n: Z- | トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。! |8 N5 p6 Y, h# u
7 E7 n/ U/ l2 w" s. G4 j ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。# B& x% T/ r; g! B" V
' x" A4 V { L7 f8 L. ^ 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。6 H6 Q+ a) E0 S; U( i3 p
( U1 p6 V5 J6 h7 I 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。2 Q' N% j3 Z- Q+ K+ Z9 h* ?
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夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。 . s; K- S' z" X. p! t! y0 T6 p* l5 _2 t. \; `! P
その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。 0 z4 D& H$ Z0 d( f7 F0 {* m' d; u/ |/ u8 T" A/ S
それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。* h2 N Z% `% c2 j
+ Y# f7 N7 z6 p3 W; w 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。 3 j& @- q2 f# \2 h8 \- z3 f* w J2 S9 C* t
「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 . R8 F: M# M5 V4 G: N 9 `) Y- D0 l3 F9 T) e 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」( X. h5 I f) n; P8 k; v. l( s
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それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。 6 s" Y* a ]- t! b8 E% F, u! K" f 8 a3 V4 h$ X4 ` その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正)# u8 b4 B$ ~. j! M2 ]8 F5 C, @
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◇ 0 W8 \' |! f/ e 7 ^% R4 q, M; O( l$ D: X6 O7 r【用語解説】抗米援朝 + ~7 k& E8 w# T/ b7 p7 k! f+ X1 y% I: h& |$ @* y, V
1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。2 x0 g9 B- o* T; C
茅台酒瓶问题成反革命开端 I; ?5 a4 T3 Y8 b7 v6 v# V(中央社记者张芳明东京二十五日专电)日本产经新闻今天连载中的“邓小平秘录”透露,一九八九年四月十七日由中国法政大学主导,为追悼胡耀邦而进行献花行动中的茅台酒瓶问题,被中共当局作为“反革命煽动”的开端;十八日晚上前往中南海要求与李鹏总理见面的学生和警卫发生冲突,成为天安门事件悲剧的序曲。 + H. r {, s$ h, C0 q9 Y( X . V6 i; U; B$ D* \. j0 f1 b$ ~文中指出,一九八九年四月十五日,前中共党总书记胡耀邦的死亡升高中国国内政治社会情势的不安,造成许多人预感可能引起某种骚动;但是,想必没有人会预测到后来会发展成为那么大规模的运动。 + t4 B" m! O' i! j# W) d胡耀邦去世第二天的十六日,北京大学出现大量的大字报,不过学生很少;但是,十七日中国法政大学职员学生发动追悼大会后情况为之一变。十七日下午,先是六、七百人迈向天安门广场,沿途市民加入行列;傍晚时广场上出现了四、五千人,大学生对人民英雄纪念碑献花并合唱革命歌后解散。 % l4 B: @ R* B: V0 Q( c1 b5 h9 s
这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。 5 x% S/ k9 p6 A* J1 N7 k & w; \. l+ A- p# q3 e/ H十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。 * C9 H8 t- i1 k& A7 e 6 G- R& s8 x! {3 Y/ S) i( C! f8 p, \4 _这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。- O/ P. w3 i8 Q% U3 g% {# H# n
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当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。 & L0 X; Y6 U2 f' a# x2 T" Q/ n0 S0 q# C9 M( Q5 [: M! @ H' R4 S, M
十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。 p2 F! [% d2 Q/ {2 j
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【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に 3 d/ j4 y: |, [1 u! y* O5 t$ R" `; S% O8 s! H; A
1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。2 P8 ?9 g$ E" ], {* X
! l6 S- }$ _% u 胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。' s1 o6 ?: m3 e% N8 S4 K
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「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」 * A! d$ q/ @* d 8 c' b. Z. c1 | 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。- g/ o% Y6 j) \. p
+ Z3 g4 p; N, C* d5 J トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている)% @- \9 B0 Z, A/ y
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それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。 & V% F% l/ ~9 e' {! S% V8 P# s0 \ ! G& Q, _& }1 T( o, H/ x5 e2 h" `* e 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」 ; g( ^) r) M! G& S- |1 Z& | 7 i9 i4 Q" i4 @5 `" S: d 六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。% f0 K! b: t5 O
8 T! ]2 O, B5 n 呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。 ; |; n/ E$ f% r0 P 3 D2 [/ `# l4 r3 X7 ] 「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」5 [' s2 w/ B5 e
6 C7 w0 V0 D6 x# g( U7 w5 u9 s2 A1 o. n 当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。5 i% R, Y: N* a/ F" H
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北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。 : b' @- y# Z% ?0 v* G# R7 k; e: ] `
しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。$ H" K. S- ]; i2 ?, \( S" }
* V9 l8 H3 U4 `( u* [1 z. p そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。 : y' u( }7 e. Y- r+ B! S- l; z2 l% p# m* ?5 Y6 Q+ x, Q
面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。 5 x& v+ t/ n, V0 q# B$ Q. j, Z( F Z) _
「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。 : {( K; k; Z1 ^& z 8 n- s+ [4 ]& t) a" ~0 r' r- B 天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。2 W, E- y4 q6 U Q7 q. a
( L4 T6 U0 q+ R. R% N 十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。 # E3 C9 E8 p& W% V9 c" N( v y i0 E A
十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。1 c6 r6 r* Z$ x+ B3 ?# j
8 _) k5 |9 K+ `' t" t8 k 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 ) @5 a* s! Q, u0 a1 w' x3 N/ q& E& ~7 H5 K' ~* P7 \& H6 O
这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。( T1 n: \ F. s' v, L$ a
+ ~/ y% l3 y$ C 由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 & s) a, y" n( q
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【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 / T4 @, N" e/ u0 I7 Z: \% m4 \ m y/ J9 j# J3 L! j _$ A% P
■下心ある者を警戒せよ % X5 v- ^; M& G0 P- q1 Y& Y 5 {7 {0 g: P( Y6 `5 M; ?" x 異変は、新華門事件から始まった。6 E2 X8 D! L" d& o
6 o0 I& G( }2 i/ [$ L 1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。' g0 Q7 P, i9 Z
# v+ t3 F: i6 Z) W3 R, f: t それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。 + S3 o" i- b2 W& T) |& O% W8 Y( A L I- y2 c( j
いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。! v. n, d2 q$ d; Q" h" |, }3 w
% v$ q2 G% A& [9 c! F. n どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。( {) l% p7 ]$ |/ _& N' \
& h/ [# D; ?4 x/ F; M/ h0 B8 H0 H 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。. {; C, x6 n, e1 k0 d
4 z7 k3 i! a$ X8 N+ j8 S3 f" C7 g 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。 + f# C3 S6 v$ Y6 R: C1 t * g0 k" F$ U' T% ]8 q% F$ |( m3 ? まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。 ; p& \# I' y7 q& l3 f4 R. Z& }/ y# D
党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。. ]" e7 F/ M2 b% U
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89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 ! p7 T' r8 I5 e. \! [3 L * E$ r6 Z* n: `3 j 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。$ a, h9 a5 |/ ~
0 _3 \. C1 X p- S$ N% v) H" a+ H 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。 $ G0 M/ q# D' }% o / }% ~' V% r. X) X2 P7 d この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。/ X% j" j2 J) N
1 Y: y0 ^+ o, V$ [" E& W 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。! {. J# x9 v+ ^; C+ g! V
' D: M* a3 ?8 D6 b/ J 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。/ {$ W3 Y. J# w3 a! e# M
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全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。 - U& L" I1 b9 K2 @% r" v- B' o5 c # h7 w% j# j$ `8 }# `) r$ B9 a2 k この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。% I: x8 \" r2 J) ?% U2 N# ]
" w$ I; d, R p5 p: T" [7 S 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 : |& L7 b) \' ?# T% }7 e " F& e; ~" o1 _* [ [6 [9 i 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)8 U: K6 Z e I" i. s
" g5 s$ `) a1 X( R( j ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。 0 a& J9 M. B/ ^3 V5 @3 b' b3 B! G' X2 |" \
(2007/02/26 07:41)3 O% {- g* _2 f
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1 l% B. g. Q. H% N, A) f# o ; o7 `3 X7 e2 Q% ~1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち
邓小平秘录:赵紫阳误算保守派学运政策& p' ^- v( V+ g9 V3 x; M( ~; s( ?
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(中央社记者张芳明东京二十八日专电)日本产经新闻今天在连载中的“邓小平秘录”报导,赵紫阳对一九八九年天安门事件前学生运动的看法和保守派形成对立,他认为学运发展有利自己夺回实权,未料到保守派对学运采取强硬对策,他的误算造成了后来自己的下台。8 F4 @# u G5 ~2 T4 b% M b
# ?4 D$ \( |: e, \4 J3 q9 H% n' C3 W赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。 ! n% k5 O5 q* ?, R& G + C0 t+ n1 P1 ~1 u% U# X赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。8 U7 u5 z% F z8 c- i
6 A4 t9 S! v; R" |' z“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。# r9 K3 a2 \( Y T3 v5 n2 P( H
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渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 E# X% r5 x- Q1 U) O# K # v; \' Z3 c. x; x“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。 " n6 b) _. N( o! E6 {. Y3 M + ~& {" N0 F2 I. u9 R3 ]赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。 ; s. l c: W2 f% @, n# T: O3 @) f6 I! R2 X! {/ l8 j+ L
【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 . ^! K' A$ a$ r$ A1 e / n8 E3 C( E3 \! H- v4 c見通しが甘かった* W# R, ]/ G F
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「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」3 y7 [+ g( T9 Z! G ] @( H* V
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天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。% P7 | L# }7 j: H% g: I: g
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「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。) f) B! g; v7 y5 E5 \) V/ @) r
( r! e6 s) _' g9 T. g j( g7 R) c& [5 a 張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。+ G, a l2 Z3 ^: Q( v
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趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」4 \) H: F t1 `. J$ O" |+ b
: F5 Q* L* Q5 A5 ^) z その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。 * y: n$ ^1 I1 _' N% j - K: {" l# }" ?% Y" X) l N- C 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。 i0 Q# T3 o- {2 t* }0 U8 K ; C: \6 E+ N8 h) l その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。+ v6 Z& {' e- Y* I8 r
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22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。 $ C0 ~# p: |! o. ]$ c' R( J4 c. i# A: Y7 \, A4 ~
北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。 ( D) Z N8 K+ ~' F; M% r# Y$ i1 P/ T, O _6 W1 r' r# K
ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。3 a+ Q( b0 U$ T- z+ G6 ~, S
3 i2 L0 h. f: @0 H) I! ^5 y それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。 ; Q, E. V, O2 g6 w/ G. S+ d ( Y/ D k' ]9 y9 c, T 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記)1 g' s; @8 A# `; _" L: j$ t
# g+ r( Q6 i3 [6 r. N 報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。- T% D; z0 w0 [
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天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。 Q+ o o- S! L" c1 I3 ^7 {4 B3 w
5 |# g( M! S! h. W3 N そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。% m( J k3 z5 ]+ Y" f+ U8 v+ F
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楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。 ' z5 J, x, ` g2 p! W ; ^. r% W ?% r. {, _3 g5 J9 Q6 u 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。 6 h# P; V, T& @+ d. ~% O- b0 k9 \2 w" m0 `, {$ {
「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」. T& N0 h# \! _, V* B
6 d# ?) H5 j& R Q7 w$ Q8 H 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」8 G1 P: K" g- L
( g4 V1 M. f4 b% A! g/ N 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」# O3 Y8 j/ Y( H
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トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。 9 r. s- Q. }/ B- W4 O/ U+ a J$ a% ]) z, w$ j5 w; M! h- g
これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。 7 Y: k9 U$ \0 ~2 [" j! | 2 f3 [* i; R x" l2 j 油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正)7 f; q. K3 z3 l! h u
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【4つの現代化】 1 J- `7 Y6 P3 L$ o, G9 B $ D; k: w" i: p3 i, P 工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。作者: 日月光 时间: 2007-3-2 10:08
邓秘录:人民日报社论反使学运全面化 * b/ p" ?: z* @% O9 Z 5 ]0 F5 U `' x y) S: _( k8 R(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。9 F6 ^; r* {5 x4 g8 _* h
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“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。 3 E( m4 }+ J* g9 u4 L. @+ z邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。 % w! C) m/ c; \7 r& O. v $ e: [8 \( J. G- b2 V$ d2 Y3 e3 K9 N' ?0 M人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。5 |! ^6 S% `4 _( m) \ m& O/ r
$ I' r, _% |8 F就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。 ' L$ `; V1 V9 K9 x * G8 q2 G' @* g【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説 6 J* n6 s0 R P, `& W ! D: f. G, M: _( C■反応は86年の逆だった' T2 p( I" z+ y U1 @; Q
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「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」6 i c; l5 m; J6 g) p% f
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1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。 / f( U' B' B# A: H 5 T F& e& s5 N 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。6 _; _/ J) C: _+ b& _0 S+ P! Y
4 A/ V" s# j" r* y! Q 人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。) Q7 E3 Q W; ?4 ^ F3 [. D
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「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 7 L w/ ^& U9 F2 E; M. j 9 S) |" e- G0 m; A% A+ p1 P その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。 9 }' C k! q5 o# Q2 @3 t# P2 D: _( o& n
陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 % q% ^ M% m1 }' d% L 6 Z, G6 S* v9 h# ~8 C 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 / Q" h( N0 I2 c- [; U( Y5 l ' x/ ]3 D T; w x 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。- V( L4 q* \; Z/ Y% |9 R p! M
v* P2 r# y/ q, P, e3 k/ L トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。$ s$ [; I2 C' H- ^0 E+ ]
! v2 i. h, L* { N$ h しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。 S! J9 P: B3 i, s* V6 j: t9 l9 X# }( s1 I# S) ?$ Z2 F# T
北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。 * j5 n* x7 ^7 @& J7 W9 \ o" w! _$ ]2 f, H: G' K4 s
当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。9 S! K; d5 ?/ H- Z$ i& G. _
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この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。1 ]) F" K3 n: \4 \
/ E' D0 \* I9 l6 d 新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。4 p9 _+ l; F0 u- j, u
! u9 F* R) p% L3 I) o8 } それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。 : m$ a* i/ n, k3 r" Z* G4 q0 H8 ^ ) T* k1 m; b& {5 W2 N 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》, m5 U4 Z/ _: E/ ^: V; n
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各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。: I7 A/ ~1 z. {, R! M
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これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正) / U* }5 k0 u3 E9 h5 R4 B+ H5 h! A w4 p6 M$ ~) s
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【用語解説】トウ小平文選' I a* F9 @! u. v( e9 U
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トウ小平氏の発言や報告をまとめた公式文献集。1983年出版の第1巻は75年から82年9月まで、89年出版の第2巻は38年から65年までの言行を収録している。93年刊行の第3巻は82年9月から92年2月までの主要な言行を収録。第3巻に未収録の89年4月25日の講話は2004年刊行のトウ小平年譜で初めて一部が公表された。 " _' @* Y- W% u: @$ X, n1 P) i ( q" G" G; u' f- B★=示へんに其 . j: g* M" `* ~ {4 z5 y C# `0 `' V- P+ ?/ F, _6 v% K0 G
(2007/03/02 08:13)
$ Q+ L1 O. \0 e8 |* }" [“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。8 N: f, f: u b" A. \1 b1 h
# I9 i9 r+ M4 t! ?- ~; P“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。 # I3 O$ t4 E: l9 {& q/ P( U0 u) [, x# j2 D
于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。" `/ L8 s4 V" S2 n! F: j7 P
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不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。& X& Z. b% Y4 k2 j
8 U: l3 v( v/ ~- B B* {0 K" U% ~“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。8 J% w* }4 ?. D3 \ b2 Y
9 B" z* f' i' |6 f9 C【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 % c/ ]# I/ Z1 f+ Y! I8 m: v+ S' B2 f , ?2 M6 O$ }& M ■指導力 試される9 }5 `, T+ [" B$ m" N$ B5 t3 r9 i
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1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。. x. k5 v( K9 k v
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23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。# A0 V' m- O- Z8 R+ R' P
# V" e0 V, {& w 「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 7 s u' v, H* [# ] ! c; u6 w, p& S) [+ }3 ]' R* m 「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 , B+ A5 H1 h$ t0 C" x9 `. G. a& N5 O2 I3 e' ~$ g* J& Z; r
5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 # @: A" r7 K1 w2 S" B- y0 U( k; V* p9 z
趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。, C4 e1 z0 ^: b* A. H8 m* O* H/ q: A. v
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会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。7 a1 j, L. \+ r
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一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。3 S ~4 y( p7 a7 ~0 V& A# l( u
. [+ a5 m) {$ u% z) V 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 S7 q5 q0 k+ ]4 W 5 z8 m) E, }# E8 t; g0 L/ n 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 - O/ |+ @. n, B 9 M7 b7 q+ A" ~ 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。 6 [' M; R7 h3 C4 O- _% s e& e g9 Q ) T: b8 B, T# t 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」 9 D! u6 q; M# j& s" N 9 l! f2 t- ^$ ]- K$ V5 l8 L7 u8 } 中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。' |* H2 I% n0 o2 o+ \6 @7 H
" W( t4 t' q1 o f+ d; @ 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。 6 \* I- t4 e- j6 d! l6 _# E+ `8 A
「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」 * H0 s/ t1 G7 r! H$ ?/ t. j$ I* o
学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。! R* k: }/ Z4 X
) G# W% D. [% x: w 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。 / {$ z4 ?) N7 ^9 B/ R- } : D7 M: A0 L8 U 会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正)& m& R7 m. ]% o' y' P
: K& z9 ^& \% s* L4 E ◇ / r5 E7 \ a a0 _9 `+ Y0 J3 T2 w5 l5 v$ R0 ?6 m
【用語解説】五四運動 ! V+ e8 }0 [4 ~4 B, W% l. V 3 D$ G, m# V( |6 E0 |* h 1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。7 L8 p+ o; N2 B; u: D
4 ~# B) v M: j) }【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線 % z3 B9 G" U5 u* |- D. Q
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■厚い壁、立ちはだかった3 F" f2 P* n# d: R. `
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北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。! W, @! o: u& T9 D ?; {
- k6 z3 g( A3 {. H8 {" \" C0 p この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。2 v E$ D& j8 j% K/ r5 M- F, d
# h" ^' j! ^$ { 趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。; |9 [5 y: `6 Q2 j0 `: X
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学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。* l$ c* j7 i' Z2 n7 [
. b4 R( K m- h. l m 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。 % D7 R' V/ V2 { b, \, @& D 6 E: W4 q8 m; O9 [ 「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」6 ~4 c' R; q$ A5 {% r- q) w
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天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。3 |9 p8 m( L: m9 [8 |
* ? c- e' y) `1 [/ l- S 張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。 & u8 a G1 H& ^+ {( ?. z * M# S2 k: k# y& M% D# o その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。( F, M4 o0 N& _) F
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それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。- i4 R- |/ m, H7 o& `) C) N. V, W( _
5 X3 s! l# W1 V3 V$ S5 I9 X* H& D' l 趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。, \, j; B% G5 W' b3 z, l. e j5 C- S
/ s$ b+ I6 b ?/ a 許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。$ O3 H( T; F; ?/ J/ e0 C0 w
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趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。1 \- v$ G+ O! q# ]2 b
% `. G* j3 w( }# }) Z 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。 5 V/ u' e- ^3 E9 p/ d 4 G" R6 D0 k- j+ g! Z8 F: p 「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 3 }, T( r7 h; q* W# D" C( P : H0 J' T4 s; D$ @6 i. O- u 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。# a; _# ^. ?: P) Z. z# U4 |' ?
) V+ Q8 X; ?3 B( |/ C' o% d 3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。 - y. J5 l( U9 E& ~7 I/ u S( p! A$ |$ V& k
許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。 & K8 f6 b0 y$ K" U0 O0 v. R2 @2 Q; Q( a0 h7 t* ?& e2 A# g, @
趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 d$ i3 C) r4 Y5 y" L+ |( J% m7 u, @; T4 S6 i6 ^3 ^% o/ ^0 W
前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正) " t$ L0 n G" L 2 g, V C7 y8 L/ a●=彫の周が丹- |1 E1 q7 H# p, I U
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■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。 / q/ X% M7 E; \; _2 p" q2 [ : j2 Z a# u; z* p9 W(2007/03/05 )作者: 日月光 时间: 2007-3-6 08:05
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫* Q/ u3 ]3 S4 g# A# c& M0 f8 B
" Z* X7 w9 E. z6 I/ m0 K# W" i(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。3 |3 }+ a) m1 U$ [2 Z: t' j, {# |5 s
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“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。 B; h" f. e$ U5 h* V
2 A I: \+ G/ [7 L, v: O ^; O中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。 2 L X( p; ~+ t E/ B v7 B& I# K! `, m; _' i
五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。 # a- J; W$ z+ \5 W; V; \ 1 a$ y, x0 R4 C. |3 Q张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。$ @' Z5 g9 W3 e* w4 B! ^
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杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。 6 D' T+ P4 p$ O7 y) G( G- u6 a$ s0 z* ]: D. d7 C1 b& ~
当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。* ?$ m8 i- {; w
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就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。& M0 t" [6 T% I" C, H" f
& K9 {$ \* ?5 w* J/ t* G0 z1 q 5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。. y4 D- H; L7 H; _
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これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。 / q. A; ]0 P/ Q0 k, v" @ P9 M4 S W5 i- P4 q4 x B* X9 w$ z8 i
柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。 s# ]0 I1 R! u! @) k4 [! ^- N9 p/ s1 o. f0 o' L3 }" {- M5 _% S
「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」 1 s8 p: U/ f: T% ~3 o1 X2 f. C2 w s( _$ H/ m
張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。: @4 Y/ R& V* [; Z* q8 Q
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党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。 5 T0 U' n8 B9 \! e. Y" F) J @% d. H% W8 D* w! h
最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 2 `$ p, z1 [3 e& ~. I4 T6 ?# P/ z* h4 t0 Y: j
9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。/ q2 R/ X; F4 l; r# W
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 ) O0 U" i2 F8 y" o( x& |! s% A' p" q8 c7 Q0 d: n1 U
しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。1 ?$ {. m1 U e- r% w' `# a
3 T, e: `( d" _% _: k/ R7 R0 |( d" g: x 陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 j1 h+ E! e$ I6 M# Y3 b; `$ N9 n0 Q ]- S5 Z6 w' i% n- ]: Y S
そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。 0 u4 d4 ~5 ]0 b" S 3 Y3 L2 W; X& h) k6 w; c それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。' c- ]& S; I* A2 _$ v! `
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「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 $ h( c+ N G/ } , @0 ~/ W. i# h7 e1 A そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」) `* o: f$ Q0 w1 k2 y5 P9 O
' s. S0 ^ Z" t k" v, m トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。8 r6 H# n9 B* E: Q% p! r- h. c) v
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トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。 : l2 s' C* U y% [$ y# W' m: p6 K2 Y$ @+ v5 I
《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》, Z V. Y2 `( ]
8 f2 Y' c9 P/ }$ a7 [$ P トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 5 X/ O8 N+ ~( C+ a \" T2 d) p% L, _) f1 K/ ?* n( ^5 ~
彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正)* Z7 l& ~* [# q+ o0 L
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7 o$ i# `; f1 ^+ H4 O 【用語解説】中国青年報 R3 D. v( r- q6 H7 e/ s1 x% J0 j* F
共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。( _+ K- k0 l0 q# {
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口 : t. ?1 A& _6 Q( I中央社 # r/ n6 d7 W4 l) u! z5 {6 T / f5 ]0 \, Y' e 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。 : H" [# g% \! O3 L2 V. Q3 [( ?$ K$ Y& f9 j; ?3 I6 Z7 t
「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。" {5 B# T9 O6 [* l- b
3 n; d3 y6 v' _6 }, S
「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。 7 f; f3 d& M, j' |% a E: T. L3 F: V
王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。 % h1 e7 D8 b. F- v7 }, D! n8 i4 I
& s8 f3 H7 o+ \3 E b; q: a! p; `/ E 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。 0 j( m4 X2 D9 x {) f* L3 z5 N3 \2 @ @0 N% s6 c" E
王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。 + d( I- z9 K" \& D ) e3 \' O! x2 p5 \ 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。" H# X6 ?- c- C9 q* i
( b5 ~ F$ u1 y# v% b3 K 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。$ H" ^& }0 R( x+ m2 ?$ Y6 x2 _1 F' D
; j w6 P1 b0 `% U, x3 ]+ a% D! r 邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。1 J1 s l3 A; R: W* N( G' @
# m" X) G) a: Z- s9 V1 a2 v, P# O: M2 F
对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。/ f; f7 ?2 E3 D
* n0 _& j: n* g2 T 学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。# o4 C, A8 z U4 I9 g" x
5 F M! @# Q! L
4 K# `! V! m1 a
【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 - m$ U ^$ e. \5 B/ @3 P- ], k: e. Q. x' V7 i
■急進派が押し切った 1 n# c+ R/ y- }2 y5 W A u0 p! A1 R7 N( q; r" i) q7 o3 r
1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。4 m( U7 R6 @5 {$ n4 B( r$ ]
4 E$ m5 s, O. S, B 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。( [: ~! J8 Q& j# H
邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵 # L/ f3 \9 Z, o9 b6 z* H 0 i/ e3 ]8 d: z# n(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。# h3 H7 ]& O: l7 B- c
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“秘录”指出,北大学生在天安门广场进行绝食抗议的第三天,五月十五日,前苏联党书记长戈巴契夫抵达北京访问,由于天安门有五十万人示威,欢迎仪式改在机场。戈巴契夫于十六日上午和邓小平会谈,下午则和赵紫阳会谈,赵紫阳在会谈上指出,邓小平是最高领导人,中日关系在上午的会谈已关系正常化。 ; d6 r' U- w9 z. u$ X4 s8 B8 G/ F( m9 O6 [
赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。1 n# e& e2 x$ X$ u. Y
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新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。 ) w3 f% C% O- J8 ?( C' K' q7 H2 J Z9 ^0 q, X
赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。& k/ J9 f+ F: K2 `
; E( k- r3 T9 y0 @9 I( t3 O- n十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。! j+ k: S+ J' }4 g0 i, X, x6 A2 k" N
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赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。1 a% d* `3 }) U( h7 Y
, z6 r# N8 \; N陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。+ V! l# |1 r1 f' B p
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赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。 _) c: g% H( N4 @) d, Q: O 9 r7 u( A' H/ _6 @- L& Q! p赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。9 r$ r% v0 p: [8 ?+ P6 E5 m
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【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談! S5 B% V' o8 B% f. `) }/ K }5 o9 \4 H
& V% M3 l4 L5 B) o北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 : R$ o H/ {4 U0 F& [, h6 W0 }; e1 W# h( U: \
宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。 : P6 W0 C) F- [7 `8 j3 a0 O- L# }# W2 N1 e( u
ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。% j* I" T5 M/ ?0 F
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「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」$ X! w* t7 A1 T3 |# z
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重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。) h' |: P* q& w3 }" F6 m
) u2 {* ?# H; M( l 趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 , @9 y0 w. s/ z [ 3 @1 {4 `+ Y% N5 L O 鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。 - N& S% C2 ^9 O8 o m5 J& `+ N# V y( S% W$ E4 X z5 B( i+ |% K
新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。 ' J0 l) k; q" t4 w1 R, e1 v; F! G& `, |+ P
その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。 5 ]4 k( i% ^1 g+ U7 y: q4 O. t ! Y/ @ `; Z2 X2 [ 趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。 $ G. B3 k! W, w& y0 Y . D7 `) @( R0 N/ `. n 北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。5 K7 Y% [6 I6 k% V0 Q) g5 [
: ~2 Q3 v1 A2 p% G8 c9 C0 `, B この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。) x& S1 E. W9 s7 S2 f
: h, ] F! l9 ]. z% ]
既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。 4 }/ l' P8 d" `, p% S) d5 y5 ^; c. R' `5 Y o
しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。 ( u, [6 w0 M* v9 D5 ^ & O7 e! m1 u3 x, w2 r+ t( \ 学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。6 n8 S1 |9 v1 Z. B; U) ?3 p
; `/ r g, s: J. Y2 [0 N- x 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」 & `( }) @5 q! I' ]0 P; b8 ]: I. C7 {6 `( @
陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。2 G/ Q& |: Z4 X5 G5 t& A3 s
8 K. {2 m3 J8 Z8 R7 e 趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。; f1 u5 G- U( M2 B. Z$ J5 s
, I3 }; L( e" f+ v/ \, p Z; n! \ 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 ! e' i+ p( n' m2 ]$ B- I& P8 E" ?' |. v0 V6 M
「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。 6 @" h0 H0 b: b2 m" P; f2 ~1 x# h: H# d' U
トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。1 b& z1 X* Q4 w* `
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(伊藤正) 0 e$ X+ K% ~3 G/ S' z6 ^: C" s2 i" }
◇ . I! A Q1 v( @" k* \6 Q, Q: A/ l0 ?6 Z % m: Q) l% R( J& W【プロフィル】宗鳳鳴氏0 q2 y7 h% U2 Y. ]: E. o! Q
7 U2 q2 [4 v# Q 趙紫陽氏と同郷の河南人。航空技術畑出身で、元北京航空航天大学教授。80年代に国家経済体制改革研究会に参加、趙氏と親交を持つ。趙氏が天安門事件後、軟禁された1年後の90年7月から、死去3カ月前の04年10月まで、「気功師」として趙氏宅を約100回訪問し対話した記録本を今年1月に刊行。00年刊行の回想録でも、趙氏の発言を紹介している。. {2 G; M; I2 ^& Y0 r
9 R0 `" j9 L( s" }% U 「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 k3 j& ? Q$ C+ f8 i5 M
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文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。; ]- Q: ?" o: @2 \1 c! l
/ J* c f f; |! N* W. b H 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。8 I6 a+ U1 Z s$ a, ^
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トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。6 v3 H% [4 i. U K+ v3 C
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生 # ?9 ]7 k( _9 v7 U) P* o) ]/ x3 M5 d9 G
(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。 , s+ w0 h2 u3 C 8 O2 ~8 k. }7 ?( y0 C9 _5 _( N' \秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。: d6 y5 K- b2 |& ~. ]* G4 z
1 l1 L* Q4 P* B* U, n& H二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。8 q2 R+ [6 n4 Z8 h! [- ^
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这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。. Z5 X+ u, h( F, A9 J# k8 A
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秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。+ w' ?7 L+ W4 l6 ]
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秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。” " p9 K* x5 B+ O$ J. I4 i+ W ; _3 C6 b! F1 {秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。7 F4 R. n$ _- w/ i
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【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明! B; x7 T; L1 T z N
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■「絶対に発表するな」4 P6 w. j$ q8 e, ~
! u1 k, j7 H+ Y. c! {9 Y/ i5 L 「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」( |' @3 C) M1 Y; d9 ?/ T. f/ f. J* J9 f. N
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1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 % M7 h, [' j: P& P3 T4 L$ c! y 7 }, R3 ^2 S! u4 Y. H& q この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。$ s$ b" p$ M0 I. P
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李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。( A* N( w% o# I- E" N
/ E5 L2 f7 V) b! e/ c; o, a ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫4 |" Z* k$ S8 Y' r( F
1 m1 D' w* ?: f) g0 |. Q/ S その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。% f6 k4 _5 b& l5 V" o5 b
' a: u$ s# z: y0 Q; X# g 若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。, @0 V6 B C; a& `0 p& @$ [
/ ^! j+ g& Z. f, A+ i 動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。 & D3 e! N) _1 j9 U9 F# q9 e - e+ [% Z* c/ C& {: F+ s 楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。 , e, G) W* S) s8 e4 X5 {6 K( q/ L2 b# b' s' N' R U
戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。( x1 R/ t7 d" e/ W/ y
+ k1 F' x( l5 k+ E4 [ F. f8 w- Z 「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」; `$ b" u$ f& z& F9 L
( m7 M! \% k$ z( C 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。 ; u8 u3 K' x$ |7 E$ M+ ?& H 6 t! D6 h! w7 h. t 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。! e& N" J% e& W4 E/ p& }
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掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。3 w9 l# S& f* V0 [/ W
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同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。 * A- x# z4 z; P! U" G2 `" K. v5 j! B0 y3 g+ X$ q4 K! e% O* n9 N
その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。 7 E( m' o, e# N! K$ P, J3 v2 @: v
市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。( V/ _* L4 G$ o# J9 L+ N1 l4 X3 m
9 Y6 v5 |6 x0 t3 g/ ~% J 「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。8 c- o% O- a/ M3 I4 E U) W
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「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。) j+ Q1 v4 B( \ e n0 x; t
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「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 5 V# P! K- `% s# c7 y& V2 Q3 r( T0 ^( ?% c* P3 x
「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」; r- P& x8 t, m/ M) X) \8 c
, }( S9 S7 r. e* |, K9 p 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。$ p- _$ ^/ r; q5 I
. D: z2 ]+ x1 r( t% g9 `$ F 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。" T1 @9 |5 @/ R# _" k6 p. m
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そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正)% x3 o6 m% l2 U4 V
邓小平秘录:民运人士拒撤退血腥镇压成定局 7 a- V. y2 c, c6 h9 {+ X6 R' O中央社 1 Q6 a; g; Q" w - W7 @" J2 v9 H1 R) o 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。, L3 G+ L/ i0 b* {4 o
0 w& w2 u3 x; p. M) h: ^ 「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。 a* ?' y/ @: j+ a% M, m$ } . ?1 A4 A% ]- L9 H1 j/ ` 中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。 $ b# {8 U- T! I9 \' V& I" ]5 p; J& \; g6 R% K' v
在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。1 \. g8 O- I5 f
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中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。; Y6 k( {6 B; w. g7 d
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鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 , n& ?5 x# A1 g; h
: S; \3 R5 p5 ~: M7 P【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否 & @" r% F$ N& h- T3 Z$ ~2 W# I9 C & d, A9 P1 B: X# ?3 |. I$ G■必至だった血の鎮圧 & w1 T% F5 F& k& D2 K: M5 a0 Q9 W
「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。 ; W A/ S2 q) \& g 7 s8 h" O" |/ |6 g6 } 5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。& Z. {& T/ N: e5 Q. }8 W
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5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。9 D% l3 P _/ b2 Z4 A
# X/ \ W6 k7 r+ t 包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 + x/ v. n9 H( X" \. s9 z5 p6 e; P/ G7 H3 F7 k
王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 $ ^9 U9 ?8 U; P& W; v/ w6 s , r& Z6 G" q: U( y) Y 包氏「(撤収は)いつ?」 + t- j! j8 P+ k. U4 k) M+ C: h$ ^% Q : i ^' J6 C+ C# Z' O- V6 M$ m 王氏「今月末だ」5 g4 N7 U6 a% y4 U+ n% V
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王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。; w$ h3 m5 u L4 e; H; P2 N( p2 M, X
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ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。 7 s! a: y. O% D7 C / H6 f' [* v+ u$ e& m5 a; U. ]$ E 「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」 $ L+ g+ v0 x1 G + G6 H, R3 p* F" ` p. x6 f 柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。 ' v; E) E: |- c# ~' r! t 6 V& e% Q% H2 b5 |1 I( e, [ 高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。9 n% k% `$ L0 p$ _8 \' K9 V1 ^
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王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。 3 a6 [1 ~( v5 w5 E, i0 ]/ w4 b: \! I. I: D G P3 m4 A
彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。" {1 U3 _; }! ]
4 V! A, G% g* |3 ?! r( N$ z1 f そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。8 Y; L. K. z+ |7 G; K9 [
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≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫/ [# f# H. f5 m
, g3 V8 ^; u5 Z6 k8 U+ V( P! A 王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。: E$ @* A. S" s; J/ t5 C
3 {( T& R! \3 L$ j2 O" C 声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。 & R0 ~* K4 k5 Q9 D4 X ; s5 m* r1 I( G- C/ R6 H2 m 連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。 5 k* G3 j! r9 k W$ C + s' a$ ^2 b( R9 p/ B この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。 8 B: I( e0 z" G1 p: }* j& x 1 Z" k1 x! s2 ~' d6 M9 O 直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。 + o6 z; F5 f: w9 d M& e6 O0 C1 R 3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。5 e0 z! k- o( j" M) y
' B6 U4 ^/ [0 u9 f 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正)0 l7 K9 Q e' b! A2 j& Q
$ t5 t8 y$ m, m4 U) G. _ ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。 0 N8 H, y8 L/ q m+ r. H" V " w4 z6 q, n* a& h/ n ●=杉の木が丹 . D* A' _- e- ?; |* u. {* Y 0 O, j7 E( q* e0 m(2007/03/14)
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 ( d2 D) e# `2 V
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春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。 * m" y ^( c) a5 S; }8 M: q2 y) _
7 f! L: i% l1 }, ?0 f- c期するものがあった 7 d- x" M: c4 A# A5 S9 N : x+ G8 _& n1 [+ \8 p* T& W% Z, G 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。4 y$ O! Q0 G$ G- g& N
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午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。( F3 I8 B9 @) d& t3 c
( `$ T- a' o$ N" i! Y) l" k. R 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。% _; w* T) @9 L: s
; d0 \+ `7 J0 S% f/ a- B 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。 / V" E7 z; e8 B0 i9 C0 c4 n; \* x ( A4 M. o f f. \ \3 Z; Y3 q" l 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」 1 c3 W2 A; f& j& h: U/ Y ; X! D9 L8 B3 U; E* Z トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。4 k2 t! N. a3 Y5 R& x( K6 I
: u7 {, n6 R. v1 f( t 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。# f2 R. g$ C1 K- p8 q/ ]
' ?9 g4 _3 B/ R9 R- }
トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。! l5 {# q) D. j' t7 j" R9 w- {! t
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≪天安門のツケがきた≫ " O7 z' B2 |! J4 z) l- ] s+ N8 B6 r
元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。- w) S( ^; d1 Z$ o) ^' u
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「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」7 F- @$ B: X F8 I! D
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広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。 : M5 Y1 t w( } " _& m8 `# @+ b3 ^" W4 i8 H 「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」 , G: s: u! d- N" @8 G3 S3 G ; x3 m4 R' h }' O3 P 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。( ?, D: ? j- w) N5 X! b
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身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。' _9 T7 o3 h+ F! u& u
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しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。2 @9 Q2 ]& S5 D9 J y! C
$ d, T" V; \, p: ?8 X. S5 E6 @ トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。' h7 Q( T" y" ]# U* S
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天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。) c) P$ y% m3 Z5 ?) d. X- L& b
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計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。 5 O- C5 E; C% S 8 P l+ \6 l3 V3 W9 e5 E その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。) m! G" a/ a, q. r+ [1 ~2 ?
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トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正) 8 l, d4 ?( F6 D' o* T / n# K$ e4 F6 y% ~■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。 3 a' d7 \- D5 J% N0 W1 G; ?3 ^, r" v
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第1部あらすじ6 T) B; Q$ w% D) u) J" B