邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟 ' y L, v) }4 `7 Q) L $ @0 J/ w) S7 h% @日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。) y- h n; `8 l# {: |4 r) d
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文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。 4 `7 t& ?8 U6 P4 ^5 p; ? 8 x* E! W) |9 B; R秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。5 O6 U- u! O8 r
_' o* ~* a* R8 M5 c) H" P胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。 $ M$ g. w& ~/ a* n$ e }% E' [# ~8 S$ w
胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。 " I3 E/ Z2 N' f" H. F8 _2 C' ~( c' Z+ v4 I7 o4 f
邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。+ m4 i' W" n" y+ X- \
( z' Y( k: o' o0 t2 P$ ]8 I" U' ?8 l一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。 ' g j( \+ k# L% H2 L7 _4 ?9 h. m/ N+ F k. i7 o
一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。- f w' _+ } O( n5 W
& ]$ {/ @( V- y0 l/ \# C4 }; x【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死 - ]/ H6 @5 T- V! v n4 | * q; R: O& `1 A( `( w( T: z今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。 " x+ T. x# G* v3 r! j. T- U% v" Y; A [- N
猛然とたばこを吸った * K+ M8 A$ s0 r H( y. a( `7 z( i9 I( V- c7 ~
天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。 $ V( F4 d. W9 _ d! L- [* p4 a# o' q% U
胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。; H* E5 t0 q+ f$ p4 i* T/ q
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当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。3 L% R: |$ G2 b$ K$ ~, _
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そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。4 ~. G) U/ B! R- x/ Y
" V5 M$ R5 w0 k! w6 M/ G 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。 : o: G4 x' H# p3 T) Q) J( S 4 x' K0 U6 R; H7 t9 w, L& e! B: w9 \ 予感通りに事態は展開していく。 4 t6 ]; A# M; C( i * I' F: ]# P; h+ ?8 V! }! T ? 訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 $ q+ L! W- F* Q: w6 a, E9 m t8 _3 E9 R4 p, c そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。# S- C9 V0 [9 _
+ o& ^' K) B+ g; H9 C, t 胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。 & N* f/ k2 F0 k, J( i; W ' h3 O1 v) L: T( J7 F* f 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。 % g+ T& ]" l0 k U0 t" t! m/ o! T2 k1 j 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 ! g3 o- e* {1 Z- t& P8 e, a5 s, Z" V% T& u* J( K, \) `
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。0 t1 V+ j {$ a) e! e. m
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「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。2 ^+ u3 {3 p0 U( a* _4 [
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天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。8 e0 d1 e3 s0 b5 v
( L: S0 Q: P+ L! I8 `' r" O4 \( O さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。6 @" Z5 L! @. E# ^( r* X
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その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。 9 |! R% H4 H# }, K . g: d2 z% e3 k/ W. C v: x" F, z2 X( u (中国総局長 伊藤正)- {3 P1 w; z# B! _( E
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【用語解説】8大長老* D# F D" D/ }1 M! `6 k
- Z6 G4 f1 C; l トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時) 3 Y& [; ^7 r9 f1 R" _2 ?, T f/ O' g: C6 G! m
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1985年6月、中国共産党中央軍事委員会拡大会議に出席したトウ小平氏(左)と胡耀邦・党総書記(当時)
3 H( q1 b$ J) P! X! W 报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。9 X% {9 |9 H; S9 Q
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一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。 : T. S& _" f1 C( @# q( G- d - o( ^7 i# K* i 根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。, H& ^/ x8 [7 f4 R0 d7 ~ C9 I
$ o8 Q. j( _# t1 k Z2 C 邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 G N4 ~4 s, }! s' m# @1 |' V& e( C: H8 U$ q% K
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【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争# b; b2 d9 ]4 P+ Y) _: e2 C
# k) I& L8 w L2 n. s; N6 b7 P) |
■必要なら専制手段使う/ x: Q0 F! _; w' S
# O/ A! M3 I: X8 D& { C 「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻) 6 |: K, \* ~% j2 g/ R% e9 Y% Q- z) `. v2 [
1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。 5 M: G& a8 y* O0 n+ T 3 f4 i k* P( ?0 _; T8 @, n/ v+ a この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。 : }# Q1 }9 u; z+ J1 `4 B h$ m/ Y' y0 X4 x) K! b; {7 b2 r$ `8 u$ l
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。2 Z; |- S" B) U) Z" f& s. c
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そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。6 _9 D, U. @( F1 J4 ^& g
, }5 y, d* T' q& `8 w7 z この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。0 R1 I3 [; M& i/ N
f1 t }+ R- C& T, c6 N 当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。* y/ `# f" E! A6 L- c
/ C" x) R L' E3 H- Q- G) w 78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 1 T3 ]& I- ~# Z5 }. d$ i6 D( I" _6 ~6 c* _+ H9 W9 j( G
トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。2 X( S7 A% d. k/ h d; M) q1 Z2 C
6 s2 W/ M+ }/ l8 |, k) y& z 「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」 9 v$ x1 ] |1 A4 ?- D1 m" W; K8 c/ b8 `% y
「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」 3 X5 o; s) `' U: Q$ F! L; p& O; x( N* s
だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。* @) {+ y* i- x2 n% M. l
6 G1 P* p3 O* K1 U6 \; B: g6 q$ I* c' O , H ^( K! O# z9 h6 u反党活動の証拠収集 6 W, w- k2 j5 ?% N: j; d# \4 T! ?2 A' J9 \$ j! o: w2 j; a
天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。, X2 X& ^! K7 M* @5 b5 Z
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方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。5 q! Z4 J0 _- I1 }' R( q8 L
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「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。 Q: V9 G$ q- F; o6 x
6 h; N+ F R: M. v
その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 / l5 j9 k" {3 [; E+ c. d# E/ }* v; O7 G' z7 F. m
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。9 S+ K$ R5 D1 g9 {
; @/ c6 |# T; B( c 陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。 6 q5 y# }- N2 Q' o% J1 V% n $ f" q/ H. `. X7 Y' Z+ o 「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」 ; U. `& d' I9 z# V/ t. n$ o, P& \; _) q% m+ a* B, M, C+ v/ I
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」# n8 S% J4 J. n! C- U% f
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「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」- |# N# [6 _9 E( t" T
) M6 F! B. E; q' V 「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」+ i% D4 C8 J; E) W& p
; S. ^1 P' s, [$ b/ M 言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。 5 Q; i0 o# M/ w0 P* \, v6 _- \- K, [2 _0 P# I' D
それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正) * _& x+ y6 v1 U+ u: |8 U& k& c 0 v3 P' Z7 V7 z+ K ■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。 5 I# t y3 u- k3 C0 V8 W; i8 G5 r7 U( o/ p8 d4 E
(2007/02/18 08:10) 0 W) _$ }, U, u# h8 ` ) t V; e# O4 Z& V & y" M4 g3 w2 w/ N
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭, I: V* e3 L' e& C
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日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。. A7 N9 z2 e! _ P5 H
% ^# V# ]" P2 f" u6 b+ l) X$ w 文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。2 G" N1 c. q, {4 |
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文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 i; g- B/ I( l! E8 e* c/ R
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拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。2 E4 ?9 R( m1 T0 m( y/ L
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胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。 & B4 g6 \. A+ X% a; e) |: D( s7 `7 P6 ~8 z! R0 u# B4 R( x1 E
「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 & v+ n9 O" a/ z, V) m* N : C4 [8 n- v5 o9 d; o: n 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 ( \1 Q" y, ?; ~+ F: S$ I* r9 O/ T2 i 7 H; Q* R3 y3 H1 Z1 ^【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ 3 K' B& k; x4 P# i8 |5 b0 n% @4 Z# R) Q3 w
中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。1 t0 y8 N G7 u6 B& R8 L
: R: ^% Y3 E7 ` その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。" m, j( P. d4 V& g1 p! Z
& v2 p* m$ n* p0 T- v 国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。0 ^; L% @$ m8 [/ C* q1 g
: S* M f% u* E0 S- a' [ 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。+ @0 M% U+ J8 v! u: I
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長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。 # T3 |- {' l& \$ w% {6 H" T8 R0 s
これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。# V" h) N# W: s0 X! @/ E" \- A
* d! ^" t4 h5 o0 J 「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」% {6 V) j# f& T) Z- o; v
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「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」8 K$ c, `, A* @% N4 Q, ]# C4 l5 P
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同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。- F- J& j) k' w' E2 `
, t2 u9 B4 s) r' n1 D- E 「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」; w# V e+ C ]( q3 {: e
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王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。: @4 \" I4 [& @9 m
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≪胡耀邦は声上げ泣いた≫6 Y2 f' ~5 c! y f
1 C, p [8 p; \外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)$ m- X% T G' v& W! n7 F& H0 V$ @
2 o8 f2 n0 u5 T) v; O- }
胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 7 S* ^) y% _. Z' n) Y $ M, H2 O! P% x8 Z2 l2 u 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。6 C7 l) j# x5 H
0 q" a {7 Z" y. _9 ~1 W( Y 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。/ k1 ^% P: U/ K4 v! s
# V3 | K% T0 J, t その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。+ y9 e& _$ D9 ?0 U
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「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) i/ @8 \' \# _ O& e6 Q, A9 e' A: ^& q4 p9 H
趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 # e9 |' O( O. k% p F / K; x7 d' A9 ^; j+ n 「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) + C& `/ j" p7 r* U& ~ 1 K/ I& h4 {1 `, t% w! ` 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 - U+ Z) s. K p# H) \: _; G ^) U+ j l
それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。7 q- e' [; F% @: e" S) S) O
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「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」; R, o5 `* J5 q5 _
; P, d7 b* t, U) P$ k. ]7 o5 \- l 採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) 5 |% {% o: e {& K. z3 X, y8 c+ q0 W7 ` G. v
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9 o" c' O% J! K7 `+ K- ?8 G■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。 ^' i0 H4 g! g7 v; c
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市); z0 @" U& K. a" c/ a
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/ l' `- D2 f! T5 e2 I% o; r& h ! ^ J9 F6 J' Z/ a5 I( o1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利0 p# p2 W: D$ r
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& f; Z. Y, r- b2 i 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。' L; U& O- [0 W) O
3 L$ i8 r$ G4 M4 c 文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。 4 J/ B1 c0 f9 o" e; t4 F5 q/ Y 6 o7 v/ S( G. s5 s- c4 k 当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 2 w5 J0 Y+ `7 _. ? 0 a8 q6 t% V3 h9 k! r; d( l! \ 秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。: Q. j' ?2 r6 |& o6 V# g9 u
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担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。 ) a6 N) C* _) T0 T2 Z/ j' q, [+ E+ A- L" Z
李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 3 F* M2 Y7 @- B" A% G' X 9 i: @( K, v1 n 在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社1 o; A* x1 S$ y# n# l m) U
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【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない* b$ ~" Q1 ?1 J4 G) i2 h) X- H
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胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。. n1 h# c' O+ P% ?
5 u" t+ h4 H5 @" T4 ] Z! o. e その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。$ Y$ S( {2 ~. t! H: `
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「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」 " z4 k& R5 L2 W+ s6 d+ p0 x 5 k" F9 a+ g4 Z5 c5 A 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。9 s* y: |5 z _+ t
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胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 - b# z) y1 p9 E) P6 K4 b4 i+ R3 g# o5 J( J# s: j5 G' g7 v
かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 1 Z1 m+ y+ Q( w8 {6 E! C. r" [4 ~$ T
朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」$ R9 W: C' X! F1 N0 b' |: e
% v$ s* l, U: X- z2 k: \4 L" c1 {& j トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」2 j4 ] P, M1 T& X* G
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しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 * b1 J! `* c0 z) | 0 p, X5 w, y( u$ q+ _ 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。; ]$ i {& D8 ^! N
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「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)9 `& k6 J3 x, h' k0 X; U! c- [7 i
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一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。3 S; g! P( U0 c( ]( ^, a
3 J5 c8 F/ t/ g+ i6 \8 {) \$ Z, e' @ 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」 - {$ \( R* g8 ^: C, l, ? 3 q4 P! T6 Z0 m' W% d/ f" o" h それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 Q& u- D m- N7 O' b. q- [
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《ひっくり返った党人事》 - q Q8 I: `( ^5 z 3 s8 P' P8 K; D! h" B; ^; b 思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。0 F9 ]6 M/ R& R; Q% b7 Y0 A+ b h2 N# g
* O' Z9 c! W0 f% Q 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。; a6 u5 Q- @* l y3 i5 i) P
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5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。, E& o L* n2 Y3 ? x. a4 E' b1 c
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10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 9 b9 o* [4 f/ N4 U9 |3 L 5 p0 _' a/ ^& ^7 U7 Z6 ]: d! i1 N 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 V* L& y) O& J9 Q 5 S6 f# o @+ I) q: T! I( r その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。8 E; `9 H9 o; o& Z. \2 J' h
. J/ i$ c' @1 O8 W. R 趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 / U' O" ]) H: e( O- S2 s 7 K B; B0 c% e# f/ h% s このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。* w, H1 y4 e2 E: B9 o5 _
: b% b% r3 r+ n6 t4 { 陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) & [- t9 e$ C' _, s+ G+ p! U: Z, {* J7 s2 a
■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。- [% b* A/ f+ j u( V
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■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。 " x9 S( _' y2 {' `% E 2 l$ ~/ E7 ~: z8 K- J. h ●=彫の周が丹" _1 c0 Q& C& Y
8 `7 F2 D% W0 X6 K6 x5 w& a(2007/02/20 07:26) # N8 t4 s; {$ j i( X7 K 2 W% R; u8 t/ b) C& D 9 t1 I. g$ X* s2 k! O1 h$ e T. m7 ]( z8 p" \" L: y& ]
3 P$ r G' q9 ~% h f, U; b2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
: w2 W+ G5 h% h3 ]0 M. D 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 : ], _' ^! X; S7 g! P: I, f1 z* w& ~- J; L( ?
邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 0 m2 d: c7 I+ I6 ]9 ?6 O + `& X7 s) V3 \' X* B 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 8 z: E- x" j, E' z8 g% Z+ j
1 c( ]6 K& V3 h3 I- Z; r 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 " N; G- B. ]0 i1 \ " A# Y+ l7 A" E, b( m% m9 w1 B 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 ' w, \/ j- f' v ( n" V" R& b/ c6 y& `+ k 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” y' S: z2 B6 p8 _ 3 _) B5 [; w- W @6 |6 l7 p 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 0 j( S: I# F( v# I! Z
" O" c# @: Q0 u- G 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 4 O8 I8 B- n" v8 `3 E" F 9 m# c3 n9 ~; T/ [6 @$ y M 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” Q: W7 I* o8 t9 t- V, w4 f, a9 h% g8 ? $ H. J$ ^2 m! n: l! h; X+ K% g0 F2 Q% `
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 - H7 _1 `" \& y : c G' o( X8 T, Q7 }3 p% t8 ? 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 / U* E& K( c8 p. y4 q- Y- l* l$ Y7 r( m' T
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 2 U) v# f' I# \' y6 b" t # H g. x) i V " j Z- t6 L7 U% f. }% F! h7 J) i# A1 H! i2 _5 |9 G
China honours man who reshaped world 0 w% K0 W2 |% g8 t7 dWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 2 c& Z1 f( t1 O2 O* K( H2 d) G, D9 U0 C/ Z+ h
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. % e; W i5 r6 g
" _: a. X0 y3 ?9 j! ^7 R; g7 U6 RBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. : c, c3 C/ @2 v6 M7 p/ N4 ` J; U; b
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 3 q. c' G, Y4 t1 n. {, [! c5 H# X) y# B8 U' ~9 Q
“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” # M0 r# F1 x" p/ I7 Z' s2 H3 J- p. ~8 J
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. + j; n8 l) j- S( X+ w; v. V. v
0 v4 ^7 r' W6 W7 j2 mMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 5 ^8 q0 s6 s6 `4 b6 i' L# y
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” : t% I% i9 i0 o. u! M4 O+ o- J6 \9 _9 b8 w9 w
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. # j3 L( i$ ? Q9 D ! X" M8 P) a% iDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. \& H) g1 `. V" O8 l : m, ?& I1 q$ F' b( UDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 5 y, o2 j7 [1 r: t5 Z " l' ?7 W, l% v6 p" F( L! g2 gHe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. . v1 ^4 g' ]2 z3 x' b- Q: ?% A
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Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” , \* N. E# k" t. b J {" [3 V8 T4 n5 j. s
Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. + g3 ?( e4 {! N o: ^5 P! c5 _+ t# L& n/ c
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 9 q& r+ S" t4 R0 Q
! {6 h$ t# _# O1 A( fHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 3 a, _' K0 Z/ w
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Long road to riches5 q# @& Q6 J; q
! O. D1 D$ x- k& A5 yNow 0 Q/ r( g6 z- v; G+ @% l% K
- @! T8 s5 B9 s6 h' g; C* [Population in cities: 550 million 3 N ^% k2 @3 T9 i% H2 L: {; H, D: \ 8 K0 L8 e# k8 \Gross domestic product: $10 trillion ! \. F ?% n, E) c) W2 \# o' Q. J5 @* [0 ^; `& p
Oil consumption: 6.5 million barrels a day 9 P4 ^- H* O c
$ u8 ^- z. Y. C; Q0 {, j' nExports: $954 billion 4 J9 |' l' U& Z9 R
/ V N* r. N% H- Y
Population below the poverty line: 130 million : o6 R5 f) j% K0 I
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Ten years ago0 R8 Z! [3 x8 Q- A% m+ T
6 h. N( O% X+ E3 O" |4 [1 |8 NPopulation in cities: 370 million 9 F% e# a- W) M
' ?6 k7 S/ T! |- i" o+ LGross domestic product: $4 trillion 8 D2 D* R/ s4 ?2 C& d, q* h0 L7 {& ^, N4 @0 e5 } Z# W
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 6 c9 F! Z& H* G2 I0 i* p $ s% x1 M& O" u7 y$ r* ~5 bExports: $182 billion ( i+ V3 N3 q. Y8 S ' K8 y) ?) ?; }6 K" p: y$ J# bPopulation below the poverty line: 120 million 1 H6 g9 o( e6 r: j v2 v0 ~( p' o$ K& I$ w! F) w6 H: g
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies- K t2 w8 @4 r5 K6 C
5 S! X0 N' M b8 I # }& `! a7 K2 v' p% D# G“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 9 q0 A- A- _. J* ^" M : I& k8 _& v9 u[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治+ n9 I" ]) F& i& {5 t: j
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(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” # [! X6 ~/ T V # X+ \1 r5 n! k* u/ S! v2 `- t赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。) _0 K2 F4 e0 p! Y8 a. @
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赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。' X$ d( R: `* t
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鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。0 v* c( b5 V* ~; L0 e
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鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。& q* o ~* i3 g0 R1 r# c( c
/ Y- _% M) y* N; ?' W$ s一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 + t# N' P1 S) ^' J2 P7 E: w- s 1 N$ O) Z. b; v- S2 C未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。, ?* Y9 h. Z6 i3 ]
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【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」. ~/ s5 C! K1 _1 K- o& v
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趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。9 r$ v% X4 I! I' c, Q) {8 I3 t
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2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。' g* C1 I4 j6 e$ H
! o8 _+ W( a& `* R$ s& B S l 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年) 6 {6 w* W. E: o2 r : f. C8 O4 o& }, a, M. Q; U この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。2 t, u3 ^* I' g b
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趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 ' H9 J" n8 |7 k0 V7 a. W) m% V) q0 I. ]" f
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。0 H" i3 T2 j5 ]! q$ |) g3 t3 C
! X3 [$ Z% G' e, u+ w) V: Z しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。: k" ?8 b2 ]# \( c" b1 x
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この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 1 v2 `; q M7 |: e7 `5 ^) g; E) s' C+ T* [; [/ N
しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 9 h6 H" V# ?* F8 f; K" L" d' t / T, D$ }: P. [ d: e, D8 N ≪パニック買いが起きた≫* F6 ?+ }6 @1 O3 x# ^/ Z
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ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 : F& y$ n7 d, a' q) S9 y* _1 e( B) s d, j0 [8 r5 H6 k( U
趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。$ w1 |$ T2 _0 r+ z" C" [
6 G9 ^% s3 Z& ^: c8 J7 w 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)9 e8 }4 F; W' q p J
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トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 ( l8 i4 E, y( x2 A# \; c8 _$ a' S, ]8 ?( G1 h4 N
当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。7 M E% e* A! D5 _
; Q4 `; o$ C* |7 f! f5 w" p 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 ' W5 }0 V- b; G0 o( `1 s1 N 2 h7 `' b9 v9 G; i! h% s 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 O2 j8 u" o. t; Z3 z . s0 h7 H9 \ [; q& L1 r その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。2 `- z. ^' b! Q6 ^3 m
- E; M( J- @0 ~, z 赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。 5 f m7 M, j7 k) L: Y ) Y: M6 t- ]( K, X, @8 Z 赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。) q% A' f2 C* P2 ? O' i" |" |
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【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会 1 G4 D7 t3 V9 m+ e" y& ^! p" Q# [; }. s! ^ x5 I0 S/ p
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1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。 - z9 l4 Z2 B: O/ j9 ^" R1 @ 4 }- k0 J! }( I3 g, A7 f/ ~* H 演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。 ) L5 l+ \& Q- g+ m9 Z- v& z! S/ [" `9 v+ b9 l4 x
北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。 # y$ z% w2 y2 }: u: E' M* E( L: |. D
追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。# L* r$ {1 M4 P
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「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」1 F6 l" ]) l) H( Z* g+ L
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トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。 $ E" d& _( l/ N. X/ R# l& v( g) S+ ~+ x) ~5 r) Q- S1 ?
長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。 % A9 O O, p" F0 ^9 b+ _( l) X0 S1 f z
「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」' v8 E& J ]' k* A/ |, @
e+ b" f1 J6 Y% d7 d これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。, K$ D, ?. g6 ^' `
6 D6 X$ ]! T" T7 p! f: L 「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。; g/ e, U {* J2 W$ V
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この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。 - I' Q$ h% S! V 6 R9 N ] X% [! @7 [' W5 n5 e8 T しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。 ^! M! |" o0 g& A
邓小平秘录:赵紫阳误算保守派学运政策 ! p# k4 P5 A% r! h4 h3 y/ x3 l # }- `1 L3 t' a* ~0 S2 E1 [(中央社记者张芳明东京二十八日专电)日本产经新闻今天在连载中的“邓小平秘录”报导,赵紫阳对一九八九年天安门事件前学生运动的看法和保守派形成对立,他认为学运发展有利自己夺回实权,未料到保守派对学运采取强硬对策,他的误算造成了后来自己的下台。* \0 X2 N& d9 Y. L
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文中引述张良编著的“中国六四真相”指出,一九八九年四月二十二日胡耀邦的追悼大会结束后,赵紫阳总书记在人民大会堂和邓小平站着谈话,他表示将于次日访问北韩,询问邓氏的指示,后者要他好好向金日成问候。 # T6 U' C2 A' X赵紫阳随后指出,已向政治局提出三项建议,追悼会结束后要断然阻止学生示威,严惩破坏行为,以及对学生主要以指导为主进行各层次对话,邓小平表示同意。赵氏接着表示,访问北韩期间,党中央事务交给李鹏总理负责向邓氏提出报告。 6 ~$ }+ Q I! m! E4 r7 v+ d$ p& u% T9 j* O7 E8 Q
随后,李鹏问赵紫阳是否在出访前夕的二十二日下午召开政治局会议,一旁的北京市党书记李锡铭也指出,党中央有必要作出明确决定,赶快阻止学生示威运动的发展。赵紫阳回答表示,已无时间,学生示威问题应无须召开政治局会议,并指出他已向邓小平说明三项对策并获得同意。, O0 r/ X& B) t1 d
9 H; U4 t+ v9 l, `1 O; H! }赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。3 k" D. l$ y- a
! }4 Z- R3 W, p( q赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。 , F9 N- v5 d1 j4 y9 h$ A1 n2 b: E, Y
“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。 0 ~& Y+ A. X- Z) c: ]% E8 a0 a+ R# U4 W/ e, X! o* v
渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 . p4 z, I6 B" T( b( ~2 r o) x5 B8 g0 ~
“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。 9 k8 L( p k( ^9 Z @7 j4 U, f) v) U5 }7 N' g! ], ]( {4 P$ P5 ?
赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。 * L) x1 v$ j4 n n( [# D+ E0 V; F( R2 w9 C- T
【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 & i- b7 R6 O' h0 p2 r" c % a0 c; U# j& `3 A, z" Z7 o1 e見通しが甘かった ) y* z4 p3 E# n* V" d! A: p2 P6 i& r
「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」6 K% C5 T# M6 ~
1 K9 O' e- W! w. \% N) s5 [ z( G6 k 天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。# X. }5 |1 M& z4 {
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「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。' V. g& o' ~% K4 P. \; E
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張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。 p A: _0 a9 N) [& W0 ~- Z# ?. P) \$ e: d2 J/ b
趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」 7 @* |& q4 @8 I* n% f/ [& z% C" Z$ C8 |5 a. T
トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」 6 r2 p8 U/ t! C$ c2 s- F3 ] % U- B: W: X: L( F 趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」8 P# q; n* p8 d& V
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トウ氏「結構だ」 - Q3 |' B% _2 H* G, K- t 8 g8 I( E- c3 k% u- R, f 趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」" i6 a b" [; L
8 U g0 F3 ^9 q1 X. n& ] その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。 . T# S/ U2 h8 C/ ? 5 }1 I( h8 n- f9 B 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 3 Y$ I, i) `0 l' b; h. {+ ` $ k: Z! E, }) ` i j+ p. R 北京市の李書記が続ける。 , A9 |- G6 { d7 h. x6 O; `& a% p* p' u( ?# d. F6 J0 b: S# m/ J% v
「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」2 J& P6 D0 i8 a/ R5 c4 C
$ Y3 K. A F3 A それに対し趙紫陽氏は言う。; O2 X; C7 _3 J$ A$ k0 S
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「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」 : ~8 t! O5 u7 L: V, b) h$ E$ k' ] " Z. K3 A: ^! c. w7 J 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。 0 t5 q ~- O( B' n# e# k 1 R% J. o) T7 D- j 趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。) h2 U* s: W4 G
% F& `; r; W' g v# H) _& U9 m2 b 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。6 Z* ]( x3 t( j: m
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4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。0 H8 m1 Q* Z7 f1 f9 x1 d
( b* }- M5 f2 B- V1 W- `8 U 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」 k% E* H3 Z! T- E+ G
: y7 s* f0 ^" C. W L* D, o 学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。+ x. ]7 V' G0 a7 `4 B% ~* g1 `
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数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。, V$ V* H4 |) M) j
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「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 7 w) w' q9 b+ z7 C, ]; j& w$ g+ R8 I; W# e/ ^% ~
李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。 9 \! o0 ]) A0 d5 X, x & Y+ G, U9 C @4 \# R. Q 趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正) 3 I/ K8 ~: p7 G0 E% {9 }. J4 t' B% G3 x9 Y1 M, w& b" b" V4 A- F0 _
■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 * |& |- m# j+ X; u' u8 p& p' P9 ^ E
●=くさかんむりに内4 {0 r# k2 i N! Z: \) L
$ G: ~. k% S1 w) N(2007/02/28 ). E$ B' L# O9 |' |* }7 T1 J' f
3 n, R* c1 g7 z: [就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。& J: c+ U( g* T( X
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【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説. ^9 e% a9 E' S6 t1 w! C9 R5 A' V
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对 0 y9 e, {- W# K* h8 Q( A ( ^- `$ E5 g/ ]& _ i% Y. V' ^(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。 2 `) z4 Z2 }1 b1 S* ? D+ y' x3 X4 s2 d
由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 # F' d$ t" W9 W+ B# T“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。8 O2 |4 D( r; Y7 k$ ]" E
t5 {* u6 X3 H% f“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。8 Q2 @7 T$ q1 g+ _- ?! d
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另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 A& O& ?! V" k/ f$ x
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“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。" w+ }" r( C1 G
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“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。4 `# X3 ~( G6 C, e7 k% M+ l [
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于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。3 y' ~, ~- n3 H" s& ]
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不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。 [7 P- D4 D1 _( b
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“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 # @, C6 C- B) C4 x # m: T2 O: H6 h【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 3 I$ b7 |7 B" R, x9 g; b( j$ q
( o, u' S1 {0 L y ■指導力 試される $ E" ` G% l8 q8 I# u$ B& k ! F( E6 \8 F; E9 a9 [1 x 1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。8 [* s- P2 g* T; C! O0 r
2 Q$ @) |! r: |7 n# I: C* G: E4 m 23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。* p* c7 ]" W: F
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「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 1 w U; ?0 t7 V. p$ y
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「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」7 Z1 s0 x+ g) S; t1 ]
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5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 ( F* [- C# G' D) W @0 u: Z4 q7 ^& F 2 W6 O; N+ y7 I$ r+ h 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。) ~0 B4 s3 w) A( j
' y0 S; G5 ~8 [0 n0 G, y+ j 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。 ( B. k( \8 w* \6 M0 }$ W# }4 E& _6 G* C3 H
一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。1 @6 K6 \: m. _# K
% r( ~% P5 D+ K& y 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 " p( n, ]* M) Q: P& w, G3 N% l 4 N1 I& k3 s4 c2 }# J' I' z0 x 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 ' |: M+ y x" b, Z3 }% J ; u. K/ x8 |' ^, L 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。) @1 d* n' t, I. {% X
邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵! G- l; E4 c" J& a8 f5 r- l
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(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。5 q5 o1 r3 @' q+ ^
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“秘录”指出,北大学生在天安门广场进行绝食抗议的第三天,五月十五日,前苏联党书记长戈巴契夫抵达北京访问,由于天安门有五十万人示威,欢迎仪式改在机场。戈巴契夫于十六日上午和邓小平会谈,下午则和赵紫阳会谈,赵紫阳在会谈上指出,邓小平是最高领导人,中日关系在上午的会谈已关系正常化。 5 c8 b. d k/ v+ g: |1 @0 a 3 D' M9 k6 n% F0 S, S赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。 , R! G1 t" Z' g # h) M0 d* U! |$ L! i. A: l新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。- P1 S% R \ R- `1 o
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赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。; @( K' u7 r, `. M4 {) i `, s& D
7 J+ F$ M! U7 t3 g% ?8 P% H* G十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。 # E' S* H5 W1 M- E j7 h" W# j. z7 z
赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。, X9 n+ s/ k/ R
" M; i- n5 O# n2 ~, O2 P9 O, q: a+ r陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。 0 l, T& F) V6 c6 s$ j% V5 ]. ]" p- j* c2 L7 S6 Q
赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。 ; ]; T% N& [" Y0 v) ~+ H3 |: {) h8 e4 J' X
赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。 % O+ U, J* \7 n$ l 4 m: i' `, Z) q8 w, W6 o【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 - u0 \! t' m. o* J, P9 j5 m9 z! x. f4 E0 m
北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 % c# j; W R5 f- W3 g, m 4 k# \6 u6 p: M6 t: M 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。! }) V. R: ?. x1 D( }1 u) _
s2 E5 o+ a+ b* }& U 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。$ V4 d N% k) Q2 e$ r4 P. q
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「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 ( ~4 _) ^# n1 n. f5 A V5 p: d' e. U0 X5 f6 x
文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。6 u4 m8 `9 j) D* |' M* B0 u
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「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。; r. s. r" M% J. {3 t
^5 v/ ?0 p% V トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。) @ \+ A7 X! E3 [ i$ b+ [0 z9 m
Y! m% f, d( [5 D, B; p( e+ V 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。 7 Q! y8 U! L7 U% `/ b $ S; {) G+ y/ F4 E5 J8 Y, d 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。1 ~( S# `6 G K' r: X
. O% ^. l; j5 K- B 「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」$ |5 |. F2 G7 C0 L( d$ A) a
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学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。7 M: X2 s. I3 p5 N' g
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朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。" h: M3 Y7 y$ ?% ?; Q# W) o
) E* a) O2 l: s2 V5 T 「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」; E; b( }1 `8 ?- M# g: D% D
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楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 : U4 E9 Y/ O. m1 A8 U- A7 m! A' j& Y& v3 I5 r7 [1 ^
李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。* b4 m/ N: W0 \# s w& ?
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趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。, U3 d# L# s* |) K5 U
: S' a: U" m9 o+ B5 V( h【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持: Y8 r" ]5 q" R$ P* m8 W
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1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。2 y3 \+ t- m5 |0 k- W
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胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。. z* A2 x; s8 H( h# z
( m- \* t$ g- Q# r トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。- Q% I- S3 }2 N8 G
6 M; F. }8 d! [' e$ ^- w 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)' S* g4 p. T! w! L3 H
7 i# Z0 b J5 g$ P4 @ 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」 6 A3 O; w9 }( H2 Q$ q5 x$ e' s t$ y4 j* ^+ C
「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。5 B4 B2 Z* U5 r% t' H/ Y4 D. E
5 a1 J: p7 n' s! X& M1 s3 { r 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 2 I! k1 N, m% |& d! L" V2 ? 7 S; `4 n' C6 g8 e) v' s5 S 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」 - t2 f- D q1 i0 w. X ; g6 ~; ?4 z P2 J3 b) m) Q( S& J トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。 6 y; Q4 F) {; b8 Y% J0 m; w! ^0 K( L( e8 c0 @8 P
≪3度密書を送った≫: n9 s. h: h4 ~( ^& ^
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1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 5 H" F( s* y4 z# n, F5 \& n / J) J' O( s) k% X 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」) V* ?3 s/ A" o& A3 F U, a1 G
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関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。 # S' J- ]% T' Y2 \* i0 I , _5 V8 O2 l8 i- J! m G 「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」; g/ D2 y- h2 S0 Y- p, x
! E, U# h3 H$ i 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。 1 r. _7 H1 ~- S" M % y! n1 b) x: s6 j/ k9 O' b" N それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。- G$ o5 g3 A7 E
& R" H) h. ]) ]& _+ r この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。 ; E5 ? B8 H0 S& R& N* {0 j( l; R+ Q+ L" V K1 k* y3 L4 N
その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。* {* u$ ^/ {- e+ _* n