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【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート $ P9 f* g, k2 {0 Z
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産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。+ i/ l7 i0 k) d2 K4 b1 A
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1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。 G: o- l3 s$ Y0 _8 Y @* h 4 F9 o) y6 {1 U8 ^/ t 毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。 \4 f {* ?) a: _ o% G
9 A$ w& j' e3 e$ S9 i, b ^( Q トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。- \7 e# O j5 h+ e
7 H K6 L; U9 k; z' [) X& t 半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。 " c& F! K' [: ]+ [# I% n% S* r $ c1 y; }5 X+ j9 U8 F9 Q- M 連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。3 J% a, Q2 `) }0 V
日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-15 # ^4 D0 t1 \! ~8 ^/ T0 ^; J" |" U# i' O L+ d
【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。, ^0 f; l- O' V Q
% P t6 e5 b8 F 香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。 4 P+ ?% }1 x$ T6 F+ `/ ?/ q " l! I9 ^3 ?) ^- E: B1 L6 Y0 L 文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 : x0 y: L& s. r3 x* R- l( x
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邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。 * g5 Q( c6 m J( ~; i7 h! u9 Q- ]( {: _' a
邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” 7 }- R6 U, i* A" i9 R% V8 I 2 b! u' T' }' y$ ^+ B! R; r 邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 7 w: X0 v4 b: Z% a* W: f
7 M; L% ~3 @8 Y; y* F/ d 与邓小平一样沉默寡言的邓林透露,正因为父亲酷爱花草树木,从小就喜欢画画的她也深受影响,后来所形成的风格就是花鸟国画。她告诉记者,父亲去世后,她为父亲画了很多不同版本的国梅,“他喜欢梅花,更喜欢梅花的个性。所以每当我画梅花的时候,心里都会自然而然地想,这是为父亲画的。” : d* n# o5 @( U! _
3 I) v' I3 I+ d* r. P+ A6 E 邓小平次女邓楠如今已是中国科协党组书记,官居正部级。这位从小就是邓家“小管家”的女部长,对纪念父亲冥诞的方式有着自己独特的见解。她说:“忌日采用什么方式来纪念父亲并不重要,重要的是他一直活在我们心里,我们经常都会想起他。我们一直用心来纪念他,这就是最好的方式。” / H# S0 m K1 S# W/ a
% \! \0 Z3 U# t 而邓小平晚年时候一直陪伴在他身边的小女儿邓榕(毛毛),如今提起父亲,思念之情依然溢满双眼。她说,她对父亲的怀念不会因为时间长了而减弱和变淡;“这种怀念是永恒的,化解不开的。爸爸离开我们已有十年了,但这种思绪随时随地还在伴随着我。今年是他离开我们十周年纪念日,我对他的怀念更浓烈。” ' Z+ r! q) w6 L: b7 g
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邓榕曾经这样描述自己对父亲的感情:“如果问我们生活中有哪一部分能够剥离出来跟父亲没关,我可以告诉你,没有,不可能!”作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:56
, Y( h! K5 M( T8 U q3 r日本产经刊登「邓小平秘录」序言 ( h* l: z3 d, r# a
日本产经新闻14日刊登「邓小平秘录」序言,揭开预定从15日开始连载的中国已故领导人秘录的序幕,这家日本报社将分成6部分进行连载,由分析邓小平镇压中国民众的「天安门事件」背景开始叙述有关邓小平的秘辛。 : _# D) _3 ~" ^* A8 R. ~+ b3 `2 `- ]' Z6 N" c5 M+ F( k
产经在序言中简述邓小平的生平指出,合理主义者的邓小平和孤高自持的革命家毛泽东成为对比,邓小平在遗言中显示,不愿意重踏毛泽东的覆辙。他在1978年主导的改革开放政策被称为中国的「第二次革命」,毛泽东发动的大跃进在1960年代造成好几千万人饿死,邓小平则同意农民的部分个人生产,他著名的「白猫黑猫会抓老鼠的是好猫」,就是当时的名言。 5 [/ C7 x# \4 j# R7 t5 H
0 i) U: K" c8 R. w4 M 序言指出,中国在邓小平的改革开放下,以计画经济和公有制为支柱的社会主义原则逐渐被破坏,引进的是资本主义原则和手法,中国人民从毛泽东晚年时的物质贫困和精神压抑下解放,追求丰足和自由成为第二次革命的精髓。 + u$ _% C% f5 V9 _9 _8 a
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文中形容邓小平是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的「一国两制」,成功恢复对香港的主权并作为呼吁两岸统一的武器。 `, Y5 U2 K1 C; P3 u ]* C- V: K9 K' l. P 序言指出,邓小平的一贯主张是,迈向「共同富裕」的步骤是让部分人先富起来的「先富论」,这种主张一方面为中国带来急速的成长,但另一方面也造成贫富悬殊的扩大和腐败的蔓延,「先富论」产生的矛盾已成为极严重的问题。 9 q. s# X: e# M( [" R8 j8 G1 q& S# a: R3 x' e
文中指出,邓小平在经济上虽是突破社会主义框架的革新派,但在政治上则是断然的保守派,他和路线敌对的陈云等中共元老避开对立,立于元老政治的顶点发挥影响力,这是扔掉有意进行政治改革而和元老对立的胡耀邦和赵紫阳的理由。 5 g' X6 K; K, Q- r3 h* L3 k6 a
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序言指出,江泽民和胡锦涛师承邓小平路线,目前的中国对扩大矛盾的改革开放提出反省,而出现赞美毛泽东的声音;但另一方面,政治改革和民主化的要求也在升高,「邓小平」仍是中国现实政治的中心。 " G- W2 Y& s9 D/ q, {3 r
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序言最后指出,邓小平渡过战争、革命和斗争的中国现代史,对他而言,一生最大的危机是天安门事件,天安门事件和文化大革命在不同的意义下是现代中国矛盾的爆发,也是重大历史的转捩点。 1 N9 K3 j2 T0 ~" j0 u4 d' c/ ~, G) A- y& v5 X A9 `
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【トウ小平秘録】プロローグ(1)改革・開放の総設計士 % e/ {, O. ]! @8 D 1 G" M1 |5 q3 {中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」トウ小平(しょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。 + ?( @3 M" V4 m& |% E3 s' ?! t2 ~) N5 {
毛沢東の轍は踏まない+ c* ^. v) G. }3 N
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死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」による措置だった。書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。 ) M' R! y6 `; I; j6 P$ f0 q' i. J b7 }! y6 v0 s
合理主義者のトウ氏らしい遺言だった。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠り続けることは難しかった。5 Z1 _* y1 u; e" t/ S9 F8 t# W
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トウ小平氏は16歳でフランス留学に旅だって以来、四川省広安の実家に一度も足を向けなかった。49年の新中国誕生前後は同省を管轄する西南局の第1書記を務め、中央に転じた50年以降も5度同省に赴いているが、家族でさえ89年に三女のトウ榕(よう)氏が訪れたのが初めてだった。1 I( u3 |- e# l/ U' h& G0 B- i6 ^
0 G3 Z8 s8 Y7 k/ X6 N 仏留学時、「二度と戻るな」と命じた父親の言葉を守り抜いたとの説がある。頑固な性格から出た説だ。0 Y) G9 a- |1 @6 w4 m
4 A- A$ s) w$ O# _ トウ氏は個人崇拝を嫌悪、「公平、無私」をモットーにし、出身地の利を図る傾向を批判してきた。だから地元政府からの故居改修の申請に同意せず、各地から相次いだ記念館や彫像を建てる申請も拒否し続けた。 : d# x, I5 _4 u1 E, f: f; N u" d& @+ e1 o6 x
しかしトウ氏の死後、故居は修築され、広壮な記念施設に変わった。彫像や記念館が各地に誕生、江沢民(こうたくみん)前国家主席が看板などの揮毫(きごう)をしている。 5 ]" `* U1 |' a4 h; p! y! t7 ]% j$ M. V4 ^, }1 i& J
トウ氏の生誕100周年の2004年、胡錦濤政権は盛大な記念行事を挙行、大量の文章や映像が発表され、「偉大なマルクス主義者」との賛美一色になった。一党独裁を堅持し、経済発展を図る正当性を訴える上で、トウ氏の理論と名声は政権に欠かせない。9 n7 K, B; N# }6 K1 s' y$ ~, S& A; U
, |9 ?+ o0 ]. [ Q だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。 ! B( h2 H9 o! Z3 \4 h1 V( I. Z. `) l" h
トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。2 S2 c9 m$ _0 K
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共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。- f: @9 K" W+ P5 S
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改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。8 ]: {! k; g5 s @/ h2 x
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豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。6 G) S' i, _, F
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邓小平秘录:方励之公开信引发保守改革对决* D8 B3 ^9 v6 d% s5 H
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日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导指出,一九七九年三月魏京生遭逮捕事件对邓小平具有特别的意义,胡耀邦曾要求不要对魏京生处以十五年重刑,但未被邓小平接受,方励之要求释放魏京生激怒邓小平,使中国发展形成保守派和改革派的对决。1 x; Y* l- r) \- _( ~1 d
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文中指出,邓小平时代的重要特征之一是遭文革迫害者占据中枢要位,批评毛泽东时代的错误,由文革路线转为改革开放路线,邓氏为夺权有必要打倒毛泽东谬论。在理论斗争中最活跃的是胡耀邦,知识份子在一九七六年第一次天安门事件时不是系狱就是毫无力量,但在一九八九年的第二次天安门事件则扮演重要一环。* _5 e! k" ?4 `) S% g
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一九八六年十二月,天文物理学者方励之由于煽动合肥学生示威罪名而遭党除名,但他仍继续推动民主运动,一九八九年一月发表公开信要求释放魏京生,这项要求激怒邓小平,次年二月老布希总统访中时,中方阻止应邀参加的方励之出席,原因是魏京生事件对邓氏来说具有特别的意义。 3 Y0 m" K! U" n3 f3 z1 E: u# V& n4 w
胡耀邦在一九七八年开始攻击毛派理论后赢得年轻一代强烈支持,发展成为要求民主化的大字报运动,邓小平最先是支持大字报,但魏京生将指责箭头指向邓氏后遭邓氏下令逮捕。秘录引述目前住在台湾的胡耀邦前智囊之一的阮铭的发言指出,魏京生被捕时,胡耀邦并未希望重罚,一听到判刑十五年的消息后大吃一惊而追问邓氏,但由于量刑是由邓氏决定,胡氏毫无办法。 , J( {' E9 |& |1 C4 R. o0 A/ C& O* f5 `/ u4 a" x {9 a
邓小平政治论理精髓的「四项基本原则」是在魏京生被捕的同时发表,核心是「党的领导」,亦即坚持一党独裁体制,攻击邓小平是「新独裁者」的魏京生也可说是导致邓氏「四项基本原则」的产生。. H: t) G. B/ t6 W
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方励之的公开信刺激改革派知识份子,要求释放政治犯和民主化的公开信接二连三出现,而在此之前,令知识份子提高警觉的是电影纪录片「河殇」问题。这部作品揭发中华文明的封建制和黑暗面,要求改革,六月中旬在国营电视台放映,引起很大回响,但进入七月,开始出现反弹,党宣传部虽驳回再放映申请,但赵紫阳大力称赞作品,默认上海等地方电视台的放映。 6 \" m: ^* v$ S0 @, I, I6 f: u8 Q- I% g
赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。 ; @) {5 y' P. Q0 C | * E5 W. m! }2 d3 |中央社9 _& B+ \9 B7 X: L% S( c
1 ?3 J' H; ?' A+ F4 m- N8 t & ~/ v$ {. ~- m- X" W3 l ! P6 I i8 y$ @( i/ m6 A3 A 5 B7 u( }, w/ m! A5 h【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件) g' x5 G8 c( ?* T
トウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。2 O' m7 ]% [/ C: H! B; H
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釈放要求公開状に激怒 4 f5 q5 d) @0 C J( U E簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 ) T' T0 n$ ?- s# V, Y0 J トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。 0 ` H0 q# s% J& e ! e, m: y" l9 Q) d' K この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。 : L- N3 O. g' q# _- H+ @4 w: x9 s) O& N; f3 }& N9 i
第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。 2 I5 v0 Q3 @4 i' p2 O/ r8 Z6 ]" ^0 d 7 w) H# b4 W. _* z 前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。- F* p1 \+ R2 F
3 U2 t# b S1 f 方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。% x! P; Z; ~0 w& s% f& \1 d) U7 k
: [$ Z% I0 i$ G/ _0 g5 P% z. K, o& | 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。 6 s- O7 }6 `; u8 s) d; P% a, C0 ?4 ~( \
方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 2 y1 J) o+ g+ G q # @% }: D k* ]2 M4 w( z攻撃の矛先 民主運動へ . W0 U, b- K L8 c# W. [1 Y' N 胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。- u' Q1 ^! V9 q7 G+ X
ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 " C+ p; M3 n8 @' f! h; c+ P2 K+ N7 x! p3 d/ k* S3 O
当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。- _4 S, \. I6 R. B- K' z1 C# T
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「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」 - _( r. U; b% I6 o h% f r1 U0 \, P3 m `; h
トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。7 D9 L2 k7 w- ~
4 G6 i, |1 f% [; |, ^ 天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。 - _0 r! M$ b2 W: I+ M( @6 w2 ]' u5 m( b( w2 q( N
それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。 . a& M4 o H6 l+ h5 P0 D " r/ M: c: |, @8 g2 s 中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 ' B3 o k3 D- p& S' B/ M) O- z; q8 W" ?( [& Z& ^- }* z/ j
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。5 j j( {6 `. B2 Y0 D9 q
; P- D' r! M X1 Y& k これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。 i/ r( Y% K: |: G" P' V
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中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) 3 o0 P T. V, o
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【用語解説】文化大革命1 q4 D, i) G# J$ ]$ F( a3 x
6 Q- Q5 Z4 Z; g% t: {- P0 W 文中指出,邓小平在一九八六年十二月三十日向当时的党总书记胡耀邦和总理赵紫阳等六名中共党领导人物指出,必要时非采取专制手段不可,这项谈话宛如邓小平针对一九八九年天安门事件决定武力镇压的状况而言。 & |/ {$ M) M' M+ j' d W9 i$ e w1 P& L
报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。 & i) K0 {9 i4 o+ E% j) n) p L/ g* t- S+ N6 u& e5 x
一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。/ b4 U: i k' }% T
. t( P6 b+ _, X7 O3 A 根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。 * G+ E0 ]. w- |4 h& a $ E6 W3 ^# e& u& ?# m! C K. f 邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 + m0 @( g A0 F9 V* s3 K' O$ L9 K8 r+ }4 D) M# X3 ^3 H
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【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争 6 `" Y. f8 l: c7 l4 Q! }) l( _$ L r0 P, l( P! c1 o
■必要なら専制手段使う ! Y9 C8 ~1 E- U: r8 q3 K' I Q# m: V) t( ^) {& n2 x
「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻) 5 I/ u9 ?$ g2 e# n' f0 H# O( ?1 t% ^
1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。9 d# _9 Z1 j9 v+ a6 n; V6 [
7 n( ?2 q; _1 i, O: U この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。3 i* O, ^$ T4 i; ]
6 K, S5 E' M, W2 [/ s, A
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。* G$ J% u V7 z* ^* m
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そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。) H m2 a! d; f9 b6 P+ T7 O
3 J \* n! R5 {9 Y/ i この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。, Y$ A3 s/ I: R t# W. R3 K
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当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。 # L+ l3 m6 w/ K* v6 Z& } _1 }9 T$ F& U0 u
78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 # e3 o+ f* ^' p4 O, x! N/ e" y5 M: I9 Z& \+ s. g
トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 , ~5 m' }: v2 B* _3 g8 K% o% n8 }" O) } ' ]$ c3 D: Y2 @ 「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」) l7 q0 t' _5 ^$ F, t
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「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」6 U s. B& e6 k: I
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だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。! x( A0 X# P% L0 n+ ]' q
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邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 2 t2 V8 {4 f8 M2 t$ K 4 X( O1 G5 \: L# n/ G# R日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 + ?. A* u" _- ^; {1 x - k0 W( {3 R$ B# J( ?# ^ 文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。2 V- S; @& [, d2 c7 H8 k
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文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 1 Y$ W( ]/ y) |0 c2 P' z/ \4 R4 s; r, b" P/ L3 i* N
拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。" u! M q: Z. S, H: ?7 Z
1 W. V) v H% v" D8 n% s 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。 6 }0 M& G* @. @) K) w & Q8 o: m9 B: V2 n; i, Q/ \0 N 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。( E& }& k+ T% u, f6 c3 w
1 P( ^% R# a! Y0 z* @ 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 / n& m7 w+ H u% P0 z % G# A# B( w% D/ r* G8 `【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ : ]: P+ k- n) p/ F4 u7 C# [7 F4 Z5 w8 h Q. t
中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。 ( z! ^ c8 h$ Y, { # h* H! G# b! H% d' A5 \# i) r その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 $ ^4 R# t. j+ {5 t1 v5 G1 x9 }8 ?8 y. R( w7 u, d" Y
国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。6 X6 _& r2 A3 N* w% X
7 U* v) k. [) e7 f 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。+ c2 n! D, c p M f) J9 w
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長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。 : d# u1 C+ N) |( m$ n z 2 h x4 M# T* Y" [ これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。 ) j! f+ z$ d1 I$ N K+ s* p& x+ B( j: i4 O8 h
「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」: L( D; ?, v5 b6 J" D
" O$ f9 o; w3 F1 F' {8 \ 7 s! l0 C. u/ v: `+ c! u外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) 4 t" |8 h8 r+ E3 l% A% J4 r& ?9 x6 N% P: `: `' \ P
7 ~. Y7 N8 c# r1 T
, p4 ?4 |9 m0 Q% n, M+ w0 F ( C$ A M, A6 Z' ]1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
# a1 x. r& D i" X' ~胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。8 ]2 l) B: z8 D# A. W
, Z! A% F, @9 n5 Q3 h8 G2 ^% m邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。( a- \% F; r. V$ Z
L5 h( g0 n% I `: x" B由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 9 a' n H' q5 K, f! ~
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【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 % R m, Q4 S# L「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。 & _- Q3 o" ~- f0 |6 B; Z2 m# J1 i: e/ t. d+ R& P E; m( n
5 r. `( | D' v/ l改革へ深謀、トウ・趙合作- Z: a# g6 [' y# D
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対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。$ v4 O, h' U% I% |$ T8 b9 y
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党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。# |! d ?9 c2 N" }9 H( e
2 E# J/ p0 D1 m- e トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。& C$ A, K4 n3 \' t
5 |5 K. F! Z7 P' J トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。' c. t, Z1 Y# h; a+ v7 v
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党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。 5 [* C+ h0 O* F. p. d 0 |; m* |5 p' w2 m% W# ? トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。 ' j- o" v m" I* ]5 d% J: O& @ . s- @$ F# ^2 T8 u/ f$ C' w3 v その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。% u4 S' I1 `' V/ ?
' x# x7 Q9 z2 c( V# s ≪長老たちは引退せよ≫ 0 d5 g; ]( X9 O2 k m6 b, r0 \! A4 }2 e' [
胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 M& ?" C6 Y/ r, h b4 o, U+ z7 _' {' v8 W5 P6 b8 h
トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。, [5 u7 P9 e* W- |. E8 L& l$ `( T
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「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」 6 ^2 V7 \/ ^0 x9 ]$ U) y8 [. J % b: G2 w* q8 I" P# w1 O 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 8 I$ P4 e- {, y+ x. O, E! \& O# D3 m2 ~; e$ w7 k; U2 v* v$ }4 w
「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)$ ]+ ~/ M! i" l* `
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13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。8 S" ~8 d; ?; p1 _; s+ a) X3 w
; h; v( p: e8 \7 J! Z1 T 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。+ E3 g9 p9 V. Z" h( l" c: D
4 x7 B, }; o% W! c+ F4 Z 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。$ m1 _) L1 E# b: O0 S0 w
. _; H4 u' N/ e2 W( p$ x: J 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 : t- p9 j- S1 @% J
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邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。1 y. m( W0 m$ `# d' l7 l
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China honours man who reshaped world9 M( D1 M# K9 W' u
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. - i5 b d3 D) ?+ z( R' N0 q v; ~# X
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. : v/ l$ S" U; m" D
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. : O+ D, [) u% {& R3 O6 y6 d7 E3 y
! C$ E! z' ~! RHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 9 E3 X6 a; d( U! E- B! R( L
4 f% _& I& g; p) }9 L“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ; o Z3 T, _( e, w$ x$ H" g3 b+ T
, K$ I# L8 J3 H" I. JMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. - r2 v2 L5 b1 G% \2 n5 \' b4 G
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 8 o' C0 [# E# Z/ O: W2 F( K
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” $ K& R& ^3 d4 }3 t5 l. i0 R j( h* V) p& b
" N6 m2 \- a( @% uNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 7 x r! c3 _! a( X4 a0 [1 f
8 _! t1 j% O. r9 m1 M9 ^
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. ) c# I+ p. w; ~7 @
/ h$ o+ o) o6 B K+ j3 Y( tDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 7 X! ~- b; \, B# t. k/ {9 Y5 Q) G( P9 r8 u1 S& [
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 4 U( R! `: g% q
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Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 5 {% `% u- K4 V3 ^+ f! c
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Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 8 ]" _ z9 I X5 z5 o( Q
6 N: k3 Z% o( b5 _, ?) \But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. q n8 }9 I: l- ^8 K + [4 t4 ?0 g) o+ iHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 2 W% d0 ]' ~1 m9 {$ b( U5 i7 ]/ q( ~8 Q! I
Long road to riches4 c! R$ K! m. p8 k1 _, ~
/ l" j; y6 R# o: WNow 7 A! W h4 _- k4 b3 H2 x+ Q6 o5 K& G9 A7 _2 |% a z2 V
Population in cities: 550 million ) u# K; e1 X2 }- A, m5 `( M3 _
/ b9 e: ^8 r& H2 }, B# b
Gross domestic product: $10 trillion 4 E% J! ]; h; ?! n) o. d: z$ e' M! V7 E! [4 U) J- K/ P
Oil consumption: 6.5 million barrels a day ! p' o% z/ V* U( Q/ j. x
3 x5 i, n+ h/ t4 T
Exports: $954 billion + p% P% G* D1 E. j 5 `( ^, s+ E5 \) B8 u0 kPopulation below the poverty line: 130 million : Q5 a8 N7 m2 }! v# x: Z2 X
- V- D* s8 d8 H* D: T$ g
Ten years ago / c; L9 {' D& R; G8 [, g / Q6 a5 N$ O) ~) DPopulation in cities: 370 million 3 D: ^5 Q8 K5 t4 V4 h" I5 T# R; c% I! p2 M8 E
Gross domestic product: $4 trillion 7 n. h) ^" S; A6 g% E; t$ H/ g( }, o( }& s" c8 m; Y+ A8 R
Oil consumption: 3.9 million barrels a day ) t1 S D% D: A/ P/ R* \# f6 L, }
$ C# Q7 z6 u# `( D! K0 |
Exports: $182 billion ; `( w; f( l; I% \' f5 K3 Z
* X: _: T4 {& q3 d
Population below the poverty line: 120 million - d5 V/ n/ K9 m$ _, e8 {
. P1 s( p. j8 Y4 ~5 JSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies / i' M% \% w. u( }1 L h& V0 h: g/ z3 w 8 a+ p0 t# T3 z& q+ i
“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 ( h3 J/ _4 H! O& g* F7 p) _1 R0 D- \+ |& C7 R
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
/ t3 g2 f/ P s未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。5 M9 f3 m _: ]. U8 N4 v* ?
' N( Z. q6 F" O( b【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 . j% P J( K: {4 I8 x* W( U9 |! G; m% @4 ]! S4 F d
趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 . {0 t. z) D. U3 M & ]0 V; I' k1 Q0 `& p) s& g 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 a4 G! y1 l* o1 a: _2 n" B
% g- ~/ s' N5 k“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。' m+ S( c8 i3 ~! y
! N) G' Q6 S5 l! ?
【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点 # Q$ F0 T+ b: J6 K( y+ M s / s1 x; j" A/ ?$ Q& ^% e1 ~1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。, F, O% J/ `2 q8 W
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「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話) . M3 m; i/ {$ L+ C% h& t `' ]7 o 6 v7 f0 Y) ]- h T' _- n 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で) ! ?" l: l% H- Z 3 X4 S. k/ _1 H 「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)' z4 N8 E( a! W6 x
4 M, B8 l# [' ^3 n3 m$ a3 @, a' U& U 価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。 % C( T9 z: |" A7 p' c+ e: R 6 |# R& V% Q5 ]+ f& |: G& C それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。 : l( s& P( m$ o , W/ ]; D" S3 u8 B 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。; G, q' b, ?8 T( d' p$ d6 p
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姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。 2 j# G% M+ v/ m; Q: v% L 9 v: D5 R `8 G) U+ ?7 \- S 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」 : ?, i" j+ G6 r- u, }) |$ u i. S1 A8 ?% r0 S; U" f6 h9 m" Y 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 5 h5 q- I. \6 D5 X0 k- w; o $ ?. [$ \4 k8 C+ v v* B2 k$ O 88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。 : A# o- @0 k( \( Y! D5 p) f5 H& J; U: s8 p
「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」: A7 r" o* Q2 E& L" P0 E
" I! H: v0 y5 o" B5 L2 j/ H8 C 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。1 ]; X2 K! f. q. i
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「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。 3 Q* R) E1 C' z. N D0 s 7 [8 `$ m" G. c) S7 d1 \" l7 F 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 " z! D% r. O. I- L# ?, ?& E! I1 N6 j $ o- L. I3 @$ T& L! w ≪空白の2カ月半に何が≫* Q5 H: d# p9 l1 s+ S& D4 G6 D
9 @, T1 G Q3 L$ U/ u" Q 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 ' j& k0 H% Z5 W1 ^ U* f% w, Y. H 1 w0 V0 `$ j i+ L3 T0 i この間に何があったのか。0 j6 {4 q0 g% ?
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トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。0 n' L# l. H+ J0 J, }* g
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趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。1 B" L' @. X) r) ~
6 W* a, p& T k- g; a4 y 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。 2 k# B) x2 U+ t5 s8 ?9 Q9 s/ g' R/ U3 j% e1 d8 }/ r
学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい) ; w4 {0 d# J* J # |' H# ^# |) a4 D- B トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。, Z8 G# F- e) P. Z' g
n! \3 J+ n3 q; A% S このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)% |$ A' w A5 B
8 M8 R+ N: ]0 X4 b" A# L, k3 J ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。% i2 T G$ ^: h
! r; E1 c7 Y3 W8 C6 }! y1 M& ]. T日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。 , Z( l. \) z( L# J3 S$ p6 K5 V& M7 b. o" Q8 t/ s5 S0 w
秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。! H! b3 b0 e, |$ r6 N2 U
( ^- N$ p9 L, J. L$ Y( i# Y但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。) Q# W: i" Q2 T; n& ], l1 O: a
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产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。4 g9 Z; O1 X4 j2 X( N, y- ]
4 x& N* d- o& S2 K# J9 q秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。- a. Y) v1 W& K( o m( {( }
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秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。 ) n$ U1 s1 B4 h! ~" U9 R5 |; s/ R) u& h
秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 . G. R p' n5 m4 ] 7 ?; z& u2 G. P; O/ M* R0 N秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。 4 ~/ a/ i/ _2 @- O4 c X- U' F! j/ m0 G) n6 w5 k6 H, _
秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。 , ^+ p" I; T; J& Q! i: T* \ 2 i; C, Y1 F' j【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。* g) f5 J7 g; t( x) M2 w/ G$ Q6 I, e
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その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。0 ~3 ~* m3 _) Q0 E9 a# y
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1 c7 F2 F' o2 t* w D「中国は乱を許さない」 ( s! r9 u6 R" k+ l3 ~- v5 X$ A7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。7 u1 \/ e/ j4 p* F4 E3 w1 }4 z
' J+ w' \ ~9 h# n8 `" H3 M& ~ 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」& H* b. h- X+ N( E$ E1 y
/ b# B6 }# y# c5 w$ B; Q 「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。& ]- j. ]# ]& o& A( O& n6 n+ W @4 X
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88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。& n+ Q! \' V& B
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89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 o: Z! C$ z. G
# z. U+ J6 m% r. ]* H* M2 n* m 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」) Q1 j- a; X; t% ~6 J. a e
, [1 L! ]" b6 g2 X ^ 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。 7 O) L3 G2 I! N! v6 O0 ?8 g j/ b& C4 `2 ]' P( U7 N9 W4 K, `( ~" D; @+ s, T
それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。0 S4 _! a' ]' u# ?# d
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当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。 , T% M( A, q" }* @% K: o9 B) a0 _ m
トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。4 T% e5 Z6 r) L$ I5 L
9 r! L' ]7 Q* @ U4 M- z8 n ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 # G/ u' f0 @' R) D6 u8 W& e9 b: a0 z2 I% t6 l
「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。 - X4 j \) I$ {0 `/ N# B; ?0 W # h$ F) {$ A0 v. g: { 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。1 Q4 A1 Z' g7 j1 x8 z+ v
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夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。% K: f# u/ I; a6 R3 }8 E6 Y
+ C9 P7 b/ _6 b/ m( W その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。3 ], G0 V: {. E7 {0 B0 Y
$ @- v% j1 {: Q( E& k5 Y それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。7 O% ]: ?5 b/ B2 l3 U
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3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。7 G9 n: n; S6 K/ }2 G3 N/ m
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「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 4 b* c3 n7 f5 N( _ " w8 e3 k/ W8 `- y5 n. K; \ 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」 8 s- W1 I) M+ U, @) c7 ~7 S7 F% A) }2 Q9 {0 n5 s _
それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。 ; q. Z! ]6 S' x $ q, ?7 L+ C3 A9 J3 a+ T3 A) B その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正) 5 F" v+ p) c7 q 1 }3 j0 O, Z0 Q) D8 P9 A) [* p. E' C N
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【用語解説】抗米援朝 1 s% i+ V( w/ c$ Q+ m7 V. {1 R/ i 7 Y: g0 C5 K* H* E: s5 A 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。. [9 h$ |( t; \
8 i( E7 a4 m) W; f t- V9 J それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。7 B" U; q" D9 B# z7 B0 S6 G
# d) B+ n4 x! i. W T いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。 5 L' R6 C& T1 z7 H! c: Z/ q8 D% _2 L# l* Z9 F( [! _% H# `( [8 \
どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。/ T) z) d! N0 l6 e4 q( R: v8 a9 N
# U: q+ w1 ^. b 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 " w6 h: y& m" Y& W, v- l+ @* \. [9 J7 P
楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。 % m" b% }% F" K, H- z7 V( U) d 2 v0 X' q; C- h6 T$ K まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。2 P* i* U3 d8 \) U0 p
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党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。- j9 v' k& z+ i9 l1 z& [5 s
( n. M# P- G9 x6 a& q3 X 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 , H6 J- k0 h4 w3 { + X* _; g8 M, R0 v: T5 O! h 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。1 L% ]* q/ ] T( A9 [4 t/ j% E; K
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4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。 y- q& G4 `$ ]0 D( |7 J* ?6 b q
4 H) f+ e& O, \4 f/ J$ s この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。0 C( p j2 D/ A* T, N
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「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。$ n$ n0 E* _7 }3 ?! `
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「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。 3 M) J. ]6 b( l' Q( Z2 m 1 b* R% j8 D1 E- r8 i 全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。 9 p9 A$ j. L/ m2 w/ C- p, u' p ' n, a2 `4 P$ y% s5 F5 E K& D この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。8 b9 t2 R2 L6 y" h7 l! h) J$ W) c
& E' r6 b1 b/ |2 L 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 0 y! f, v0 R! ^" I. Y0 d6 K. v ( L, a) f B( n5 { 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正) " w% i4 E/ l' ?/ x8 A) G5 t- |/ Z, H, T% J; `
■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。' F, [+ C; y6 e. ~. G5 l: ?
) t: d5 ]% {9 `( S8 Y+ K6 b 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。 9 n5 _: A0 X9 B1 A & N Z) f+ v1 x$ {) w) c" [/ C 当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。' |/ V) _' G, l* C+ r$ v* _
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この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。 ( ?! N8 F* k7 @6 m U% L3 D- E, A9 P& M) W. ]2 U: _
新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。3 o% ^! k: ~# @( _4 R! f" ?, O
& R8 f" `/ l" B$ c B* Q それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。 , U$ A% s4 X' E" @) M5 J- x/ i; a# g& J6 F8 E8 z
《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》$ C, I" \/ A7 l; m. O5 b- h
. g1 T' Z3 S ?# Y 各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。 . U. m z) J3 G e( \1 Z5 z% K: U2 a6 p/ @* C" |8 |+ _
これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正). j, }/ Z5 N6 m! b* d. W. g
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6 ]7 s3 {5 I- `" b: a! m" E【用語解説】トウ小平文選) h* ?( c; v; T |; O4 O
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トウ小平氏の発言や報告をまとめた公式文献集。1983年出版の第1巻は75年から82年9月まで、89年出版の第2巻は38年から65年までの言行を収録している。93年刊行の第3巻は82年9月から92年2月までの主要な言行を収録。第3巻に未収録の89年4月25日の講話は2004年刊行のトウ小平年譜で初めて一部が公表された。0 f0 d) h ]( A5 m. L
. `8 h X6 s& b) I7 {4 l. K★=示へんに其: n n0 I4 J6 Y3 t0 F' s7 E3 K
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对$ Y5 I, w, _/ g0 W/ U
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(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。 . {; w" c9 t& P$ s+ _9 w0 }6 B3 u. I/ k1 `. R% l! B! U
由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 9 ~4 [6 l7 g/ E: g p+ n“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。* v3 w" M' h0 H/ c9 w6 @
6 K% r. K5 c9 R) u$ H3 A1 ?“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。2 ~5 y$ B3 n/ L# F4 [5 `
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另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 0 e% A3 V" b- s$ O5 J 0 }. t8 G6 a# g* I; y j“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。) u; n, O; f h
0 M7 Y0 [( P" S. I“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。" s, C$ V( o; h2 U
* v, |) |# U" i0 F8 }于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。4 Y8 i; W/ U; W5 w* A& p' S3 L
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不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。. g/ ~9 O, J: B% p$ d* y
6 g6 [# U, f0 I& C“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 # C$ P9 ?( @5 { U X v0 T7 [4 \. L( ~1 F- R/ s# L2 O6 H9 y4 v
【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 3 }/ p: R' W3 M& K ; M0 N* q) _7 b' p ■指導力 試される+ G3 S% d( a. M3 L* y6 V; r
! u5 l: F, I2 q5 o2 C 1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。6 F" A; B) O' I5 A; a8 s4 B( p
3 f' \4 r1 Q4 D! A 23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 7 C% H; H. _* q: d" l9 }8 C( S, q# K1 \: Z; p9 M
「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 , ]; N5 y* i; f- a5 v
$ T) D' j, h) v6 q' n 「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」9 ]; o+ _+ S0 o/ c& ]) K* l6 E
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5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。7 Z( M7 B5 ^" i- d
0 I$ N* s3 ~, R【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線 4 I% @4 T( H+ {& `' Y# Q
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■厚い壁、立ちはだかった ) U+ \2 k/ ]* G+ _$ }( L& R6 K$ z+ `" O2 _9 Y7 O
北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。 ' ]0 M/ \7 p8 b2 |3 J3 D E 3 V4 M5 h1 r/ U% j n* U この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。 b% q D- k/ E _+ w" F% E, F: x m" ^
趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。/ V# g8 a2 i S! n8 ]
) x9 M& l4 W' |$ q @4 I; {9 X2 i 学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。 / p, ?0 X1 V, p7 J, v 9 e1 Z6 M6 v7 q) {. A 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。 9 W+ v0 v+ T) t4 M' O4 u 2 a5 V6 Y( r) t( d+ N$ [ 「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」 " t' `. B7 S& x" k' ^' F! v. a% q0 |5 ^/ B( b5 w
天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。 4 x- a8 n5 @- ~* o$ v ) }% Q, [, z# P# j9 a4 q- P1 H 張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。/ k) x: W$ t8 h8 V2 ~
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その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。" ~- d6 }9 k4 o$ h* C1 h( E
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それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。6 ~( {8 \3 _) i, y+ p4 H+ t: @/ i
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趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。# s$ C; c9 o9 Q# _/ z" l
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許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。 9 J- [; T% }3 P% j1 C 2 @8 n/ X7 C5 T) N 趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。 : R3 o# J7 g, i( w7 m- F& A( T ; |. M. p( [/ w' W0 ?" T( z 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。0 o5 ^5 d' H8 ]9 \* }! l( S
! v+ K: f- f$ R4 f2 s 「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」* _$ K/ B$ X4 b' p. ?
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。! U0 B& g c _- I7 G; H: r+ p, a
2 e% D1 C F0 `2 H, o/ V8 m) T1 q 3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。* M( N; b9 f9 f" }- Z
. U- U; \7 c. g2 l l 許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。% `+ H# {% w; S! \0 @4 A
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趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 & n! X2 f+ r3 [) f! d( R* X5 B2 s2 ~0 H4 v5 ?
前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正) 5 C* B/ H4 @1 m & o" X0 K( b! |! K; R/ d5 P' G●=彫の周が丹1 i+ B* d( q' F7 l& C
- g0 Y5 S* O( j; \ 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。 & s% P5 U& c) H9 U" t" L4 j0 |+ B4 M; G4 Q6 _" p0 F; F1 p! G
しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 2 g# h* p6 _8 J5 v% Y 1 ^# q2 L X1 o3 L$ V. b 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 9 J# W" \& a# M: R1 ^- ^& o # P1 D7 d/ C8 ]5 `. n; g% A$ c それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。) R/ ~9 X8 W5 U8 }: T& X( Y$ j- d% G
& U. F: @- ^ X, N, ~1 X 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。 2 M2 r' T' m9 T6 y& m- g# i : \6 S- f4 U1 J; i! x; z/ t 王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。- I" c R2 G: J0 \3 M2 G
. B' `$ ^8 _3 O 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。 9 b0 ^# z% r" j" {8 u: _! m5 N! F! N& ?8 R# O h
李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。 , R8 h' L- I% h' M9 | i( J# T* k( @# T
14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。1 b/ K& _ ^5 G& G
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政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 0 ?% h$ t; l; K# O 6 q6 r# i o: u( ]4 r! K3 C 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。 : S4 ]$ Z8 }; H0 d0 { 2 t* `3 w% M Q2 k: L# Y- P( @ それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。8 _9 Z# h, ]/ T0 {( {. I f, z
9 L T! Z9 p' A: i 趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 * Y+ G4 C0 L) ^# M8 D @/ \6 W ( V j. v- x4 Y! q V" f 14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。$ X; p O: |4 I" h5 q
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絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正); ^: d8 q- ^; K1 P- l j2 T
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●=彫の周が丹- d' o5 t! A+ A* M$ U w2 w. e
1 @ B1 F. ?: R# J6 D, L6 _ R ◇ 0 z. f2 v3 q" S0 {8 x- r & \: J1 b3 H2 h4 E' x, _7 v, k$ c/ |【用語解説】中国社会科学院; z/ l) l8 e% v: c8 K
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中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 & v! E/ M* L& K7 q4 i$ q% x* W" t3 `3 E7 h
(2007/03/07 )
8 O. v4 A: \; d赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。 ; F0 R* }7 w' Z( ~. R/ k9 ^. i4 M, y3 W+ l+ R
【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 ( B- n# E% [1 J. u & q2 O) z" X! G北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。8 a- q8 L0 z6 D7 v* D) I; g
* _6 D0 e6 ~' W( j7 z* Y" p* Y 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。 A+ b" O, R6 x9 s$ q6 N- R
% ^4 N3 e2 J6 j/ b/ C ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 ; q, ?7 u) n0 d5 g4 A9 u5 b B+ o " @( I+ v7 N o* l3 R" c 「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」; p9 S/ i0 x( B n3 z
7 r: O- N' _+ ^! ~$ a& R- ^ 重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。* f( w9 X- N9 R9 G- E
) @9 ^+ C7 I% C0 i% {5 p9 l$ r 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」 ! r6 N* k8 |* ~* E" ?5 P% _ ]; S! g! G: q7 d
「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。& Z0 U$ [0 f. ^- o# d% A
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その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。 + r. F# B* T- k1 f$ } 3 }8 ?9 y9 J# R G' A トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。 ! v1 b2 z6 ]/ U* r! X# U8 f; ^ ' M! e9 W* K5 a4 l. M' h9 }' k" N オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。) y& z- @6 h9 k
$ Y( S1 b# O) c0 t$ j0 \
賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。 3 H q4 g; h* X) a 6 l1 a! J7 ]) n" a8 ], ^- |' | 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」& ^* E7 m4 j! H- o
, W" `- b2 K3 p 薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 / A' s9 e5 h" p( Q6 Q( F6 A" e) S4 f1 ~. K" D
趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。! r% ?: {% N' n" a# u! |+ m
2 J) y/ a7 K- z) w" f, X, F* @1 K 趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。# U+ V1 t, L& m. G
; A, {- G, Z. h% {% s; I) F" [
「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」6 k" l6 o: b; Y
, R6 ]+ i0 G. D$ L2 u( v* f* [
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。% R) q& V2 T4 Z0 t. l
7 x5 w# ~' r: P2 L0 P さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。' e( t: u: z5 j& ?+ O& y
- v9 E, t P' f- o
権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。 . E3 o. t2 Y8 L0 ~4 S. O% G) ^$ o0 u , p( M) x, @6 b2 W/ x9 \5 S z 秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。, g9 b) ~. t/ x) p1 }
6 g) d6 N, F. f }4 s! Z! U
「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」3 c" Y, U8 S0 k
% y* I6 [/ J9 T; Z. M- n トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。 7 w5 d' l* C( S7 }* @* @0 F' R ; z. g# _7 A& G6 j7 H+ j 「政権は銃口から生まる」(毛沢東) ; ^! v0 _8 t+ R c; |1 B n7 U0 a' [( T, N; ~1 f" o2 @5 r
政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正)$ P J; x* l0 Z+ k7 _
! k$ s7 v ?9 Y+ I# {; S% b$ X* g: }
◇ - j! t! S& F4 O; q8 v8 K) o! S, ?7 E3 i; D
【用語解説】政治局常務委員会2 g n9 V# F9 y- z, Q8 H
+ G4 c3 R0 ?4 n 中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。; F h. J9 j; q% L8 ?
& O) C0 J8 @; S: I# e, v
(2007/03/09 ) p4 i6 _- S, {0 c) o6 Q
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7 V: P0 o3 a t. i / d9 ?. ?" m9 e- w% C$ K/ J1 W& f 1 ?' V) }/ L" ^ 7 O( W8 }- M" T( k4 y [7 ]# C( x9 t/ }: V2 \
, A+ K4 `7 z: d+ f1 }
- D5 T8 e. f3 p$ h/ o6 a Q: S1 d1 p 6 p* _- m2 M9 V0 |北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち
. p1 Q! w$ Q/ D7 H( { 「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。" C) u( X( U: Q3 K) {
: a: @7 J5 `/ u5 S: r
张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。 p; i/ K! {) n1 I( u( F/ l1 j ) |* j6 {. |3 {' O8 C) t5 K6 w 天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。 7 l ?3 w; b. z! k % {! d0 t* x9 v6 z0 a3 w; @# o: w 学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。 r" N; m, |9 k! w9 a
" D+ `& T) B: D2 M
「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。0 t* x2 a, n& s2 `
3 p9 O T0 s5 F# M p' U
担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。3 B/ X9 t( S; o2 }6 l' j7 K
3 G- [# _! ?; y1 I3 V5 O+ i【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令# ^: k' {2 C( W5 ?0 v$ e5 U
: @9 e8 S# V( @& ^' `% d
1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。) @6 F6 G) G- ]% H8 A
2 Y' A5 \- Q$ z6 ]- S( Y「来るのが遅すぎた」 4 c. y9 W0 |; s0 C7 @9 g % y& V }, f X3 l w: U# h 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。7 ?; |- P+ b9 k
- N8 U1 ?8 T$ b' @8 A 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。 9 I* i7 n$ b/ V2 N) k6 O2 Y" V& x `+ U) H3 @$ O% K
長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。 ; d6 C: Y# y' F" `4 H + V" Z/ \! f2 b, g6 y( F: H 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」9 `9 s) z: W. q1 _/ l+ r
( K, _# c1 H9 d& a: k6 D; f4 m! n- F
数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。 4 _+ n' ]9 G& B/ ]* Z. g ( Z! _5 a. |3 h- T 「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 8 U+ X! Y* l2 j* e . u# i6 `; Z! {4 M" [" |- g 文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。 % ?* {; d0 G7 T2 A9 S M( T$ g % d- H+ A2 S) r- `3 M$ v: m 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。* ?8 s) c* S$ |
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トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。; e' i# K W% X1 B8 U" Q9 S9 n! L
7 N' N6 ]9 I$ H' [3 h s 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。! P2 z) ~$ K1 `- m; l
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19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。 / C$ p" |+ |/ u5 |; t, f$ Z. {; G1 S1 V: [) G
「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」( @4 l- H/ \( h8 s, s
( r% q1 [( P4 L/ V
学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 , ]! E2 w7 g! y7 _/ ? t5 U7 ?9 `, q0 z, y
朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 B/ v( P% k3 n4 p1 ] i+ { " G5 x& y0 U6 s% C; S. _ 「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」3 l/ z2 p/ M- h# F+ K
! l2 r; N4 W& p" W- x( K4 R0 h 楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 - N+ I( h5 Z6 O3 @ 2 ^) Z' l$ _, Y! m0 Y% ~8 ^ 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 ( V& G: S# ]+ o) c 3 Z* ?4 s- _' e4 N0 w 趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。 4 S# G+ h; o9 T) b5 k * Y2 P. i/ Q& g8 s8 e 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。; { i" [1 J+ j7 x+ Y/ d8 e
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新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)& Z _- L. s8 r! s. I
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生* P" A T- X w- Y7 }
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(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。 7 q; V1 `- y5 b" x- [. Y, t& ?: p- `9 E; o' O7 o
秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。 9 t( d! a& B0 E; L8 @, y' c0 B1 h5 u- H. ~
二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。9 B1 h l5 ?9 f- M8 g) a# k5 t
$ C' x1 n, o- j, v( _这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。5 u- w2 x+ ?( m* T3 Q: n5 v5 V
- w6 C; J* T& r* j% o) X秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。1 G' g: |: l/ t; j
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秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。” ! K* T# J) j/ I# t$ L/ n. _: \* |) [, j$ s
秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。 0 }6 E$ J0 t7 [. N, v$ i" K; s: k; O3 Q( n8 M
【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明 ; m$ a, s0 K" F4 r3 O% S' H; Q4 W2 } R8 g, @' |/ a+ E5 s
■「絶対に発表するな」0 n. d6 z) T: \/ R9 H. ^+ ?
& b. g! O6 n+ v& c& z: `; C- G$ S 「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」" n8 i. e6 A8 H1 T+ n; H- M% y
1 t7 J' C. c% d0 C 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 ; ]1 ^( S& ]) Z0 F 0 n, L4 s! B' {# O2 f この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。 h+ v2 v0 \. C9 T. j( B5 ~5 E. R% r8 K4 j
李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。 * s: _( R1 i5 @! g& K7 R( `8 @. c" Z5 L2 U
≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ " L+ N% i( p( L- p7 x$ [+ k! M/ @) O8 z
その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。 , h# ^8 o7 n1 W4 t S: R" q* S( {# }; g4 v
若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。4 l/ T* Y5 ?* W# U% S( e/ w
0 p x7 n- x! @; s1 ^ 動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。3 n" v: d) e) N3 \5 O
; v9 \# o* x; d, x: X 楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。9 A9 D G' B' z. n6 O8 B
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戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。% s: D6 [' F$ g0 E/ F, Z& C7 L5 C
9 W+ G2 w) E. i* b 「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」7 e3 X! v6 v8 C. |4 P# n# t8 F+ c
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。 2 y( J+ X W+ J) w# |2 c4 I* F) o- A! e% N, t
8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。* s+ d0 a* s' v
+ f- m. ]* o$ J4 B" c 掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。- ?4 l8 l* _3 m7 J: t F
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同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。' C: k$ k% ]- N6 ^2 l
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その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。 # l" X1 ?# m# S9 r2 v ! Q$ P( ~6 `* ]9 y1 n& M3 c( Z 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。0 m+ n* `* ?% h9 u& R& d
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「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。. k- | m$ g5 X4 O. L
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「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。6 W+ } }" [ N' d, v7 l8 q& K4 _
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「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 . h; v$ x% b) J* s8 b+ Z2 T$ c" @4 N2 ^% E# g- T
「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」! D3 C" T3 |8 Y4 o3 h {! J
. z: r z% \5 w2 ? S* L
党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。# B* `5 J) V2 `) t9 K
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一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 I$ K4 m, v8 t* I( _6 r5 z# }
# _# W- p" `' C5 { そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) 2 t) w) ^( `5 v: F $ ^# N. S4 y2 d4 V% i3 X* ~◇ 6 p/ Y s3 c$ y1 d! B$ o; V9 g& J2 @6 X
【用語解説】戒厳令. D% T% S1 K4 }3 {1 `- C( b/ m
/ `& V d8 [0 x* ?( y 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。$ \: G/ |. a' K/ Q6 k# R+ w
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(2007/03/11)
- B6 C3 N1 X9 S; `5 n4 t; _ 「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」 7 Y) q2 z/ `, o; X , ~1 H) O! f8 E 楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。 $ t0 V& P( G" U7 m- c+ x$ G Y/ }7 s. |; r/ { |! t" X
「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」 7 P2 O8 y, J+ C* }$ w7 k7 N/ Z+ s) z$ |( q! |6 m& |$ \0 a
《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》 ) |* m8 V4 W$ W J4 [, J% | % v3 D" c# e+ R9 a. `/ ` 「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。 2 G9 b9 p8 ~+ c% q5 ?9 `# v * g" [5 w r! }% y. M0 G) d6 H 陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。 0 ^* l5 L3 k8 k y( P4 a# W: H6 e$ I4 A: Y9 h
天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。 `, E0 ^$ D, I! w2 A: [
. O/ H1 s D2 b3 ~4 s それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。$ p6 A% `! p7 a# d) r7 m( l& w
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包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。 3 h5 r) ?4 v% U- X . ]4 P& y+ |8 d; r" A2 v その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。- s2 P3 e5 ^8 p' U& o( |, E' X
1 Z9 u. f1 d% U: j 「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」; A& a, m( S2 U0 B x
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李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。# v5 o4 ^* q# V5 c; R
7 f/ ?* c% K# e5 Y$ J- \. O1 t/ ] 「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正)3 Q0 S m: A5 [( I
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【用語解説】軍階級制 T- D* N6 u8 u( h5 k- E, S& `
/ u6 N& V4 ^6 A/ _) E, D+ F1 a' R0 n米特使が秘密訪中した+ ` g R( C" e2 j* {' l
' e6 d% K: s# Z 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。6 r$ U7 C1 O/ E# y* w" \0 c6 Z0 f
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しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。* w0 G# P) W3 O `* u
% _3 m, i5 y( z f+ H1 } ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。) r8 I" E" M2 u2 `, g3 V
& w/ l ^ \) ?0 z ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。 $ ]6 S) z; V5 l f0 }' U% h# }( P. [+ P+ P$ o! N# D
「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」$ ~) \* H; c) \) N N2 M( x+ F
/ b/ ]( X: } v 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。, C) w2 N9 U" S
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トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。 4 s: u- H9 L. k$ ~5 i& V! L( Y$ z 1 v* i' \. A" H( ^3 g. l 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 # I4 @& F6 u$ F0 j# O7 D2 X6 D1 ^/ Z7 c
米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。: @# Q4 v' A/ B- W8 z! u' s; ]3 y# _ y
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北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正) 3 Y) B2 `- Y3 K# X x4 y& t- L. L " N# \+ s4 W k6 H ?/ j3 ]3 s/ X4 P
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3 _ l8 @8 d& U: I. E【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。 ; R* Q. x K, M6 t2 j# |3 g6 t1 M. T7 p7 y$ e- g. q* I
●=深のさんずいを王に , v' l0 ]0 h) z- d }% A3 q4 { 6 \- ?" T/ x% F 6 V% S/ A' X9 V0 S% `5 P / y5 `* P4 L: G7 @5 N$ ~天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙1 W) f: ?% y e8 b- C4 j
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