& \% B/ ?3 U$ ]5 D- T3 B中央社东京十五日专电5 A- t9 F0 z" X7 l4 E y& f
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- M7 f/ }9 E o' ?0 w , }) R( ]4 y* T- P+ D" D日本产经新闻 . Y9 D; v8 A# Q2 N / y. G7 w# k3 J8 @6 }6 o 5 d5 I0 A" ]- s7 V D% O【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興5 h! t7 l1 o8 T. g E" X
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トウ小平(とうしょうへい)氏の死去から7年後の2004年、中国各地でトウ氏の生誕100周年を記念する行事が催され、大量の文章や映像が公開された。トウ氏の波乱に満ちた人生や人柄、思想について、さまざまな分野の関係者が証言し論じたが、決して触れられないことがあった。& @% j' }6 j% B& h
2 `" q: @* Q; w$ Q 9 N+ V( E9 m. K# S/ j X武力鎮圧の残影1 n$ n J( Y0 x* S
; }' ?, h! u1 A- p V+ D * E- e/ u9 ]6 i8 Yその年、15周年を迎えた天安門事件である。$ b; q' d% l4 w
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1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。0 q& p7 |2 y, x- Y/ ^; b! s5 G8 c
$ @* e' b0 C; b" c それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。 3 g4 d' Y: ?4 r& n6 U % v. c, W9 s8 e6 G2 [* N! B/ ]/ L が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。 9 J) _4 V. w* a! N # G$ ]4 P. `: p2 f 04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 " a W- s% c1 t% \- x' C4 D) F' T' O% h, `' M+ y) b: i
「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」 8 T4 g- B4 u6 [: ]. i 4 m$ e E* d1 u+ ]1 s5 o# r 同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。 0 N1 D: ^1 i/ y7 J2 \2 n5 @) i7 A/ h* {' y6 p: E# c1 Z# K) z2 ~
中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。 , g a# E+ P5 b# i + S& Q% m# a: v( H 天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。 8 Z( z. o( Y) I6 b/ `9 t ; T; N, B* o9 |/ a; L9 q" G なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。5 l1 v) r; Z4 l# h* ]& _( u
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2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。7 Q5 o- a, D1 U: W- W$ X+ H$ ^. l) p
3 v- R3 l3 ^' Z# F 天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。; |' J- o1 B. d5 M$ @
) ~6 p7 v* k5 Y6 [ 事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。 * o" E/ H5 o6 D$ R# i" N5 ~- m; S ( [6 M2 S+ _* U% C& T' W4 i, _! i 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。 . h( d9 z, Y n1 m , K B' F* s' t, j2 C 職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。 - }9 N; `0 L5 m9 q. U3 w 9 Y0 r' E" ^' f; O3 i 応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。! C l) m+ j ]! d5 R, v, p
4 r& \( l f0 k* ]" @3 j 胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 % d( l" v0 d K7 K / [% ]) g' o6 a 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。2 O6 l: T& U5 N) L9 W+ b: [
: y' A1 z5 E' J/ M8 W* t7 M, Y$ | 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。 ) U% H+ T" }. i( F8 u$ M$ ? 3 c$ R% T% ^9 J" |' X その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。 # ^ c( e" P8 v( ^' j ' y: ^8 \5 e b2 K7 k) n 「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)$ B# e4 a) e4 T% ^* r
# c- I/ v2 O# L q& r 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。$ ]8 z# T. N. N2 R+ z* _" G
! Q0 p5 e+ F2 q, F- E1 K 「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) : ]8 w7 O! q! S* R/ Y- j U+ o/ j5 R5 U8 t
生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。! a$ ~: ~" z" a0 h5 R v# `
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それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 }6 [* d t- ^7 U0 ^3 Y
0 b' Y9 m6 n3 \ O# R 「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」 5 c0 \9 B& m" R r0 d6 \% b9 i( v* a9 M
採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) / F& q7 Z; B: \! m4 O B3 [$ J- ^) {( H% L
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。 , b T/ f* u% ?! G% A* H& w& ?. _6 w0 Z+ K/ T
4 U) k6 Q6 Q' g1 s0 y$ m' R; z 3 Z7 y3 N8 ^! \- a" P0 m & b6 l. S8 D. Z1 W9 s外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市). E! w- k) S9 R8 A# j; _9 G$ I
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" T5 x3 i8 M7 m 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」) 3 r; L. w7 u5 t% c+ }1 ]3 d 7 ^; {8 X6 C" J# {/ X4 ` 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。& j# i5 R3 j2 o) W/ @1 U+ b
7 c& e+ o+ ^0 i' f0 U ` 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」! p3 {6 [0 y4 y
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それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 ) U' K, P/ k# t- T+ M- W 9 R, f( `- E/ }; f) Q; _. p 《ひっくり返った党人事》 + o7 j/ d2 q. m! t5 j! Z2 Q4 \) n* D2 ?% l- z) u7 s0 m2 a- Y
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。+ S' X# }: @0 E- }/ V
+ b) D+ N; c) D# `: a& J 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 ; c( p; E( w- B& D3 V0 b3 n5 W. A; a. E- O& F2 V0 h9 @" H6 y
5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。% r. t* H6 b; _0 M' n x
0 O( n1 y$ [1 s8 S0 |( X 10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 ; z: l2 |) z H6 j K 8 q/ N, s8 t( r, F) h b, i& A! ?! o 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 5 R+ H: b9 C1 M, h- J: F! X7 d* y+ J3 a
その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。$ _* |- d! h( k* Z* {$ Z
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趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 6 k7 O" o3 l; h- u) o8 u0 S : ]* y/ _# S9 F このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。( e# K f- x* K; v1 q; ]0 M
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陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) , @. {) I! c O" K 2 p& h6 G; z+ y% G& J; c5 }; w ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。# u8 h9 ~3 n' k+ S
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■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。 ; k( ^% G' Y) Q5 C9 ~ " O) a- P% }" M* }% f$ | ●=彫の周が丹 0 u+ F9 S. V6 F: I' z5 |9 [# V! Y7 A. |& o' s8 t
(2007/02/20 07:26)0 E, _/ \+ X9 u: K
邓小平秘录:邓和赵紫阳合作深谋改革 ?' g9 B8 E( w2 i1 A: P3 r
(中央社记者张芳明东京二十一日专电)日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平和赵紫阳合作深谋改革,中国在政经面大胆改革是两人的合作,背后是两人的信赖关系,但是后来如何发生变化成为一九八九年天安门事件的重点所在。 8 L `( G y) ^2 \6 Z7 _) b + B2 F5 j( P0 g* _文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。$ Z2 e& c) q- a2 X
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邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。, ]5 X6 S8 j3 w
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第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。; ~" e z% X+ `' [, U# a
1 j" L' l# j+ k% d6 R邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。, C' B5 u% Z5 o: @9 U2 ?5 j
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胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。 % u/ u4 K& H( F5 C& A% N ) j" r& @) ~2 M邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。, }* F1 P5 _% R# p# P+ K. U
- z1 s0 g! k" t8 h: ]由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 ) S4 I* F0 d- l
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【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 # f' b, h0 x% g) D; F「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。( |! O5 ?+ R/ F7 x
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改革へ深謀、トウ・趙合作 $ k |( u/ o7 I: Q1 \% s% n* V5 A& j% R0 r1 v. G! y/ p
対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。/ U0 v0 [; s& O& X- W- }: z
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党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。 , Y* c6 ?. c O. O5 Z1 d: h+ B! m+ y* j8 }9 O0 k
トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。 ' c Y$ b s7 e / K1 ]/ ?' O. T8 [0 E n v8 l トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。3 \9 C! e* P) _
5 m( r9 @6 d s( @; @# U4 S; _ 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。5 C2 t- A; j2 x' n. j
! U2 v5 D4 l' K0 T トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。( V9 w/ S5 w2 s% X: x
$ t" U4 h5 ^+ [! M! o0 V その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。" s2 j) r. S- k1 C: T
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≪長老たちは引退せよ≫ + X% z/ o9 W( @- Z0 Z' G: J2 Z: x U6 q+ m3 T, O# |4 r
胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 3 U0 F/ l3 O: ?2 w) |" u$ s3 T: C) e- i; O9 J
トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。 ) @# `) T' L9 J2 k. S% t6 Q 7 V- Q, R# `8 D4 P5 y3 e 「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」! \5 L$ q& W3 _/ x8 k, H0 g V/ q
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趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 & u% f9 q; v- ]- I( T: Y# f0 E( b6 n2 K& `4 u8 d, s8 s
「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)4 g% b- f% |2 p, |) G
* g* w" ]# Y* T. U( L. V 13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。5 _. _6 t, V: W' m% f. U
3 k$ N# }4 [1 n0 F# g- D 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。 - E/ F+ t" ~* d7 i2 M) W w$ K% I& Q0 K3 p
「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。8 B0 T" Y5 p; r+ l) F
4 a. }% I; J% H0 t+ X) }' ~
これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。 0 @0 x0 }, Y- Z8 P* z9 K, Q7 a9 C3 k9 n5 D- s0 b2 d; m9 J+ M/ K4 d
「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」1 M, n: r. x. g2 Z8 W, a& |. H
+ l$ v' F& z4 {3 {7 o# v T P トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。4 t2 D' w7 K: A" p& b8 F
$ b- h2 x7 q8 {& t トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正), H* d& e. _$ S* E6 f! o0 s
* ~% a" u1 U" O- F/ H
◇+ J0 `5 B4 ]2 j; g
' Z: M. Y4 V- b( q1 ?3 x+ ^3 H' Z 【メモ】 " x+ [# _7 z! }6 W5 m5 E2 f' p0 M( B2 g
中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。 * E w0 D' V- Q$ l, U ! C$ m1 p# `% M4 u 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。3 I' K2 k+ |* b- u
0 v- i$ e7 O5 m; y; ]; l; ]
中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。6 V$ G& |7 \7 R6 C2 U6 w- m6 e
邓小平改变了整个世界. n% P1 f/ a r/ V+ V
% [4 V( Q; O/ Q: Y8 P
英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 5 J6 g- K% D* {% b) E上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。 ) W/ P. b& W( Y# ]4 B $ b7 {* [( E2 s, E! K7 o 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 / r( G0 E5 F) Q: e! @+ B
* y3 W1 [ x1 a 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 ' Q- i) ~3 p5 J- N: s
! y) R* c" w& c5 c9 a邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” " i: X! r) q) V' s, H W/ L \, r& B6 Z4 p( @3 L 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 6 q2 N1 H9 p& l( N, m+ v7 T2 M) ~8 z! Y" T! D
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 # A0 r6 b* w% A$ Z0 U * Z" }" l2 i9 `% w: g6 s/ [1 T 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 2 ~/ B' D& A6 S7 R! v- I 0 h( }8 U2 r8 _' g+ E6 @5 k0 q 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 9 w8 i: a1 b# w. l, \- F
, L" U. v2 O9 Q: \
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 " F( N" d- j3 u) O+ G* \* L+ I
5 c" W! Q5 J2 i( j1 O4 W 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 . g" D' V# u) t# q6 w
( Q0 _1 d( T; m3 ? 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” ( f. t" U( f O p& l2 M# Z5 C. u2 V2 K& v5 Y+ O
6 v/ t! Z/ k2 b3 s9 @! a 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 $ S7 q9 k. J; N4 G $ R4 w V# F7 c1 f7 R8 X3 f 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ; l; j5 g5 Y' S5 z9 O' |
; r/ `' D4 R9 S0 F6 ^4 b2 x- L 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。) C6 a8 L" H- Y5 S' G; u
) f1 ]; o6 o* {3 a; k; G" C
' T' |, O5 ~0 g- S5 L( p $ w1 [, }* K; e& HChina honours man who reshaped world& p* i" X! _! O- S5 C, Z
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ) y. |: Y' g' I v* N/ Y
3 b) Q0 f% L o; A+ F8 R# u; W V6 _5 G
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 3 {0 g5 d6 h" _" e1 X1 B* I m' \1 Q' Y3 k0 Z, m
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. * |/ D4 C1 ^9 p5 [: U! X7 s ; z i) `) O- M9 I& V. [" JHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. . u5 r) f* V% Y 9 k' N8 n$ F* D“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 1 K- {6 U5 [+ n# g2 ^
. l( N$ o3 `2 l# j
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. , y3 j& k; c& [0 ~3 R4 g; s+ u& [& o7 @
Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 8 S& x- t ?6 \/ G z2 E , C6 G4 P# s. a9 Z" AShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” ' L' D5 p _) i) |" X1 ?# l! f3 V8 ]/ p" {
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. + p, l. f4 |; g' G0 |& ?6 w
, y, X2 d2 |+ B) @! |Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 6 }# ^, i& h, t% N7 a; a
m B S9 H3 X% A c
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 4 T5 Q6 r; q" A6 v# N7 C3 }/ w! P* w* I3 X0 n
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 6 x* U! t) P: }, H* o7 ?! ]% ?; M9 [( [' B
Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” ; V6 \+ s0 _2 [% d1 A! {5 B) S7 I. a/ @, d' a$ o3 Y
Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. ( r. t+ x, Y, d( v: r
! Y4 L4 b h7 X) j
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 8 n$ X' D, r/ Q. V5 M: Y7 I- L 2 N8 z! H+ }2 iHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 4 q" O' s, b( m; A : k6 V3 k1 ~) z/ R3 ?Long road to riches o; y# q( y/ I
% X( _8 v( }' ?0 i) T6 i5 {
Now $ c* b: z4 w6 e u% j! f
, ?9 D' B$ Q3 I( \Population in cities: 550 million / v: M, ]# I$ z7 {' T. K3 T- F3 n3 h% {0 a# y9 u5 _' S5 G
Gross domestic product: $10 trillion & K4 h6 D8 r+ K! D) d
6 Y/ F8 m+ }0 \$ H. x
Oil consumption: 6.5 million barrels a day : L' p3 o: }- I2 f i) `/ N# y3 O0 `Exports: $954 billion 8 v0 O, p" \% d' z4 G! S" Q
+ x; }5 ?. {6 t% z# J2 k/ z: a5 ^Population below the poverty line: 130 million - h6 x7 b( R2 t9 o3 r- s% Y# E$ v \5 g% @5 Z* w! ~7 BTen years ago 1 g/ [! k/ B- W$ p! i9 _ 5 ~7 o, k+ Y% M: k7 {0 kPopulation in cities: 370 million 8 D6 |4 Y; h7 @. G' D + N* R9 C+ I2 z3 e0 DGross domestic product: $4 trillion , _& J4 f8 n+ S. a7 Z
1 N' M% Q% N% a8 V. [
Oil consumption: 3.9 million barrels a day : {3 S E3 W- D g3 |9 A" j
) b4 U6 n6 F, Z/ z( \) XExports: $182 billion 2 C: \( h0 V$ m
9 ?1 e& k; G- w8 _6 `0 F
Population below the poverty line: 120 million $ X1 W) s4 C, n5 P8 H5 A( Y' D/ v' p3 N) ?9 V) M
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies 3 D; N+ U; g" [6 A8 D" ?$ R 9 l. _; {" m1 r1 u9 F 5 w2 h! n" {8 m* M+ x1 h2 \" \& S1 ?“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。, ^0 M7 B3 ~+ ^- \2 o
5 e8 A4 K9 u: q+ Q6 O2 `* k9 @
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治% h! A4 \0 I1 F! W r% n, h
; \/ u) e! `; J4 x I" Z
(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” ( b6 T5 [- Z* k9 x+ A* A * \% V- v! p. m# ?& m赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 # |7 n: b, K1 O1 ]8 w5 j% d; L x2 e7 B! P: B/ H) U
赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。$ x2 W8 l# Z: x# _1 A ^
" z6 N( o4 s6 Q鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。/ J) P+ d4 @3 @
4 ?# f/ F7 o- s
鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 2 a0 B8 z. h5 ?2 w- g* c# k- I4 t' U5 `# W" K1 U
赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。& f& E/ y5 n8 s6 Y5 @
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一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 - v% C- }) Q& ]( I) r 9 V' p: i/ f# ~& |4 u" c' K8 r未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。1 k' s5 O* y M
4 m7 X4 h' _6 q% G- o% w. J" d+ `【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 / ?2 v, D# M8 c 4 }' ]: b! z+ z7 k5 }趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 3 B' o4 M. e& c4 w' J6 `: k+ j& F# a
2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 - a; b* }1 j9 L3 x3 E7 j# G& e. U6 }- R& D/ K: x n
「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年) ' D) T# _- h: v3 i. | - ?7 j2 ?' D8 n/ @# T8 C& _ この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。& C8 T' m) e0 m( g4 i7 k8 \# k
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趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 % U. T( O- M$ v; E2 @ I3 y1 \; B. b8 |# i1 C6 F: A
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。) E7 T. y$ H; _
$ `7 w; f2 e2 y J, } ~0 O しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。) S, I3 Z5 X8 c7 ^, {
- |* q( B8 e3 g/ M; {/ k2 p, i この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。( \- s4 Z* H' W1 G& ~1 L5 I1 i
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しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 " y3 W$ ^0 _9 @* P: D* m; {3 t# U: A! _1 k+ O% O) q
≪パニック買いが起きた≫: T- [( \; {! i8 {+ _; t r& F
! j( n7 S5 h3 V) T4 }4 l
ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 2 e2 ]+ e3 U/ ?" P : I9 R, B6 V- b; W 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。& [9 L; n, K8 G8 r }
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「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)" l$ [% X# Y, M' k: c B
/ O6 K& A: h9 T' i+ I, N% ? トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 3 y" @5 a, O0 X4 H' A# \& Y 8 q% X8 J: J% t/ U0 z; f) M8 z7 m4 z 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。 : o, R$ D! U+ r' e: R5 `7 t4 r$ x$ R( @% e6 M
5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 9 A& G, e" ]# f. r* ?# T2 M " B; q; C' ~' d; f, _6 K) ] 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 & v6 B0 z: I. i: w% Z4 n6 Y v6 x: W% v2 `5 t
その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。. T; d0 @- X$ C% X
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ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 4 P9 r; Z5 ^( o , Y+ S* w. |( v3 J5 H$ I 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)8 G3 ^+ Q j4 x" G$ Z# w
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【用語解説】3自1包 ; m" x1 H2 m. N3 _- g 6 D1 y+ ^& A2 W 自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。 / E/ z4 T5 s. j6 _6 Y8 ` p 3 W/ [" f+ _: A# N( j5 z ◇ # j' g5 i; B4 z! B9 S6 d- Y6 R M1 h, @' V( y: N; [* n4 N
【用語解説】北戴河会議( @- j5 T, l, y
R3 k0 I' K% x7 Y$ {2 \+ d6 K
北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。; A* c1 _, R& I4 [7 O* K( _: ]" v
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●=彫の周が丹 1 i- b4 {# Q. ?# n! g& z; ?, ^6 G 9 ]8 p. L7 q1 _5 b) G, w(2007/02/22 )
" K! F3 H& D& Y |) E* t( r+ N ~& n十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。 ) M4 `2 n( `3 L8 Z# r$ ?" Q& T3 Q+ {" g* U
这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。 + @! m @, D1 m1 q, {5 t& f6 W) {5 Z0 ~2 ~4 g
当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。 * q+ E1 n' \( p9 D8 S# L4 m9 _: ^7 g5 |& K9 P o
十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。 & [5 D8 F" E( m$ s/ F5 T* v/ f) x6 d1 X# o+ Y3 ?0 D. e: t( O
【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に, y8 |$ Z: M( ?$ V. H$ x2 _% O, q
& B2 F- K$ X8 S9 E 1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。6 B u7 _2 M p1 H$ W: J
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胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。; @1 N" ^* l) N& [) Z
, z6 X6 `; ~( x) Y z3 F6 F 「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」 5 l' s- c; r6 W5 x+ w $ r$ q5 d7 |/ G6 ` 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。& V8 p* f7 r; z% J# M( D
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トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている) 3 M, m& Q# ?: ~2 T$ m% n " w0 f8 H: t$ v! T' l それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。/ s3 a' K/ Q, r/ k% p" q* [
. i+ [- z: w! F8 q2 F, \ 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」 5 l2 |3 J% Z0 n Y2 d& [) Q+ b, ?) M: Q. N' j! J5 V- X3 D/ b, Q
六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。 4 ~0 i R, \5 `* l- E) d. S" H/ q& J
呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。 6 K. P/ `$ {& W8 @* }% I 9 g. @1 {: h+ q 「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」 4 J Q& J' F% f$ c- u" J. t. E X; x4 G0 i( V5 r1 w' J 当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。7 n' S, A% [- e% H1 T( I) b4 O0 m+ V
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北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。8 c1 R6 h6 }! q' N8 V& J
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しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。6 i; {8 R! q6 p
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そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。 3 c: O2 p n8 t6 P7 ]0 Y8 A" H % z6 I3 v( {% Q4 q; ?: s 面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。& b; K2 s/ g* f
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「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。 0 x. [: I/ z9 A) O U! e0 n' b! v+ j 天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。 - I, _( g" s/ X; }; Z! w) F( F7 R/ ?! b
北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。+ t$ l6 Y$ ?8 H! h/ u, W- l
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それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正) & k G% B6 N6 O, ~; I6 x; `9 b0 w3 Q8 x6 L1 C3 X3 N
■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨)2 E, k! U5 y, r3 w
/ [7 f e/ g2 @- n6 ?9 l北京市书记李锡铭和陈希同市长获知此一情报向中南海报告有必要尽早采取对策。张良编著的“中国六四真相”指出,李锡铭报告,学生运动越来越严重,已有三十九所学校的五万名学生参加,最凶暴的是北大的一部份,由方励之的太太李淑娴下指示,方励之则扮演学生与外国媒体之间的中间人角色。 , \# c- g1 |# U2 v* @7 v) X! S) X2 E4 b9 p
“真相”指出,万里接到此一报告非常吃惊,前往和李鹏见面,李鹏当晚召开政治局常委非正式会议,听取北京市党委和国家教育委员会的报告,由于会上是清一色的强硬派言论,改革派的万里和田纪云只有默不作声。+ R4 A/ a @, t, r; _1 V
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天安门事件后的六月三十日,陈希同在全人代报告时指出,四月二十四日的政治局常委会上与会者一致认为学运是由少数人操纵与策划,党面对有计划有组织的反党反社会主义政治斗争,因此决定由党中央成立“制止动乱小组”。0 k0 J8 ]. N5 C# X( W7 w. x8 m% Y
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“邓小平年谱”记载,四月二十五日上午,杨尚昆和李鹏拜访邓小平,报告前一天常委会议内容。邓氏表明完全支持常委会的决定,并发表讲话指出,此非通常的学生运动而是动乱,需以强烈手段加以制止,不要担心国际的反应,中国发展实现四个现代化才可获得真正的名誉。 * a, e2 \2 f+ G6 O 9 P' E# |( z' G, M; N( x邓氏接着指出,有必要坚持四个基本原则,使用人民民主专制的手段,刊登社论,并有必要立法,准备全国性斗争,坚决制压动乱,这次的动乱是完全性计划的阴谋活动,重点是否定共产党指导和社会主义制度,背后有黑手及其打手,方励之夫妇是典型。$ b8 V+ L4 _$ x
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邓小平的讲话和前一天晚上的常委会决定在二十五日当天晚上转告人在平壤的赵紫阳,这项决定是与两天前赵氏提出的“三项意见”完全相反的强硬路线,赵氏于二十六日早上回话表示完全同意。 # ~) B3 | A. C' Z( S6 ` $ N! `( d, [( G0 ^8 y8 c2 [; g/ K0 j【トウ小平秘録】(16)第1部 天安門事件 状況一変 * ?2 u# i) ?1 C2 X; p x% ]8 G# ]" a6 h; b( ~% a0 C" x
. # J& n4 ~( ^+ A4 ^ 0 r/ h2 ?" p$ V$ `7 b" E8 g ■断固動乱を制圧せよ : p9 L, `2 o! l( Z: P ; C9 f9 ?* x' x" V趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。 0 v4 Z( J, O1 m6 h' U' [- @# h- z% T) P0 O7 A* W/ J
趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。; w- z$ o, u J' d5 o% M6 M6 Y
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その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。: q) H0 s$ ]1 g: q! J
' r& @! s# \% I* m) _ |8 s 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。9 J% ^" m; s" r0 I, Z( N
$ Z: u: N/ c Z; S, _2 N$ M その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。 4 h6 A( \3 z: |* ]3 \6 \. O& k+ l7 a ?, l2 B7 x" e
22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。/ J7 t. h+ i, i5 _/ K* z
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北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。1 f9 K) X8 l) v0 p# f+ j
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ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。 8 S$ ?+ F" ~2 E, Q/ z / ~- s" R* {% O9 A6 W* F' K& ?2 y それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。 0 l B, N' s3 x S. G + H% f, C, N& x' j1 t. O& p 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記) 2 E: n v! J4 Q, R1 a) O0 A& H5 z
報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。 ! x8 c2 V- d- P5 S, B, i8 d 8 @. \( I; W" S 天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。7 b( ?0 L; A6 @9 @# L& m
- }% N$ Z- u9 x 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。6 t% q6 @- r1 t+ I4 B
' F, X: ?# w8 E/ P# W 「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」& B- a$ |2 t/ g/ j1 p- ^* c6 _7 B
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「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」/ \! d) S: e9 R8 y t' T/ c
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「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」 5 F* ^$ @2 u6 l. Z) k( A. t( } 9 A% Q, ]) c+ _: n" z トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。 " T, @) v4 Y& O ( x& C1 J/ p/ r: L0 z; S これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。 2 s" d0 |& Y5 h% x- A3 L( i) \
油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正)6 Z" V& p3 W C* u5 K
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◇ 1 N( T' @+ E( F. `' S" Q: M : `% S$ c2 H3 U& P3 N8 {【4つの現代化】 8 ] F; o/ }& h w& ~ % Q5 K! Y. X/ c1 N0 } 工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。作者: 日月光 时间: 2007-3-2 10:08
邓秘录:人民日报社论反使学运全面化 5 t: [6 G) M! h. `6 G6 a! K4 Y+ ~4 V/ O
(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。$ R3 U( k. G# ~5 T
0 k! }: U3 M; b, Z9 `- s6 k“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。 % B2 E& K5 w; c邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。 3 T& {+ n1 A* x! V 0 V8 k0 m' }9 i$ {, b人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。 + J7 I6 W' u& c9 D ( L& n; K5 k' c) Y' E* c就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。 , w# I5 q+ j5 d+ M0 w: C( b2 @( F5 @& x& R
【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説 + ^7 p2 m+ z! ^ S& e- i5 z, ^! t/ M. h8 v: Q
■反応は86年の逆だった7 _8 [- ^1 g. B( i9 z* c4 E: o
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「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」" @8 l, A6 s$ E
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1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。 9 t2 ~/ m! w9 s# y8 e9 n7 T! z& l 6 w' H* K! }' e: c; l. v 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。 + Y, s" r2 p1 m 2 N& ]+ |* v+ I; H. c 人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。6 |# f" u; X1 ~' o
5 k) s! m% j/ f1 ]- } 「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 * N( P2 |$ s4 U 4 { s/ e! }; \. Z' z9 u その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。 1 {0 e6 w2 A* d$ X) N6 M- A ; |! _4 m1 o) C& E S 陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 : L; j. b. N. n- D ' H% \ m/ Z- U" M7 P 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 * X5 z/ v+ f3 p8 Q. D. o! P8 ?# b( p, D" q9 u
93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。8 D4 b6 L- B8 C+ S+ l+ L; Y- B" f
- @( u4 N$ C; J7 m トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。+ M \ t9 j9 n' o Z+ x; R9 w7 e
z( s0 f! V% [- A. u/ n しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。7 m/ E1 `; s/ E j: b0 f: P
* u6 Z5 j: B0 U+ h9 v 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。9 Y8 t3 x* M) Y* [1 t
1 \8 X$ m' o+ M* I 当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。4 N! ?+ x' C+ m& P$ j& W
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この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。 ) M) U4 d; o# q' h' _ N* q) x9 V
新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。 : O# T7 ^ }, a" n( i- v% L, D$ F5 F( D$ s
それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。: R8 d/ c% L& F9 Z& s
8 f1 f" X& t0 f 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》 ' b/ o3 \8 F; |- L/ `- Q# I# U9 K6 D. Q, D$ _/ ^
各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。( u1 H7 U' ~7 G: S
4 U, F0 d5 F0 l, J3 s. m 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 * [, A* r' K: A: L k7 a: i" v p7 X( U$ \& M) h& B' j
同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。" \! w2 f$ @9 Z6 K0 K( B' k
7 Z+ }& k9 H- e6 U- ^" G% p o しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 & |# c) J' J: n# [# S/ [+ { ; V( s9 a; g( A! n' o 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。; }" ` B# p$ R8 _, K N6 K, `% _
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それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。- j; v" c5 M( H7 v. e [
6 D& W3 [, n. W, ?
宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。. `! L- ~, ~, M$ Q2 r: h6 W" V
: f: N% I1 D' E; z 王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。$ S! w k2 Y8 F' B( a! y
3 H. H8 |% g% @6 e 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。 : {- R& V6 Y0 U, B+ o3 u1 j }9 C3 V' c; v3 Z. _: K; F 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。 _1 L8 t }+ n, w! c0 T8 L5 l% r2 |- ^# ~/ _- i3 }
14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。 8 H3 ]9 C& j6 f* ~ I5 I7 _( c K; F
政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 , i7 \1 r1 u: {/ Y. b% m( \ ! P& H1 i9 Z7 y$ t- I. B* a0 Y8 d 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。+ r8 `: j- y* b( G6 \" F
/ |; ^$ s% R6 ]: V それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。8 J u$ v/ Q5 @: j" X0 s! I! v% z
' [+ w& p0 y6 ?- B
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 , Y8 v2 W5 X& I5 C+ v {5 H% v' C5 f5 b, ?2 a
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。 7 g. ?/ C" }3 i# p8 Z; l- P- @0 R3 N - G4 d x7 `( ~+ H4 U8 k, X 絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) # G( j: `; N% P7 k2 G. D! p& H! v% @. v. J5 g2 g) b
●=彫の周が丹 - @& B* l9 v) C. b$ n. K , q% ` A% h4 F ◇ M; [; _6 y/ n6 W* N " p" y9 N3 _: u4 B【用語解説】中国社会科学院2 s- U, q# _- r1 m# Y1 v
2 p5 W; p) r7 J4 e 「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」 ' k/ G: r) o) ]% p& w 7 A. l9 k0 z S7 O1 k, `. O. x 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 # V9 o4 K0 }) X& _, V2 T: T 6 X _0 f- K. B3 `4 W- _/ k( P この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。) b2 @: Q" u ~$ |; ~0 V1 O4 l! @
' j( b/ u8 ~% b 李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。 9 F/ ^- s* n" T0 g , T9 C; i8 m( s- o+ x. D" S ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ 7 l7 X% }* l/ i# w; O& v - F: j7 [$ h9 X( N2 S その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。$ {0 }, s* l- f' @$ G7 \
8 W) d; w: n3 w/ T3 g: B& H* n 若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。 + l- T7 G# I3 a1 }2 h" \2 k' c. N7 R a# I
動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。+ j G0 A9 i- ~& x% d( O
& a! G: P ?' ^& l% H3 j( \$ I0 a
楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。 / }, m: `# A: F& W/ Q( u7 A4 v) a6 |' G J' a, t, j
戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。. o1 _) L1 i) P, R
/ ^; B" q5 d: I5 s% b 「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」' K" A, e2 p1 b
$ k* N8 h3 I' i7 x 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。1 B, @8 e: |* D+ p3 z1 r! F
+ s# H9 C) O7 T
8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。 ; i: z3 \; r% n) g+ H' ]: i: D, r5 m) }3 Q0 G* s' X
掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。 " E, k$ x1 s' l6 i. k! D8 W3 ?5 u0 K/ [; }
同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。( g; N& v r7 t
1 }# v8 a! m- N e% _3 K! k! {8 L その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。& O: D3 k F) w+ B e! B6 P
3 f) C6 L1 p/ h 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。 & w `1 p) ^; {2 R" X& R# J* S a5 v' z
「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。 , O% A8 [ n$ W 1 J$ q1 K. A! r 「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。 * q5 p R' @; |% s: K# R 5 T" |0 W. j$ v; L9 _3 m% H9 s9 l 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 4 Z4 G v$ `" A2 p d/ i& R , M& H9 j& i% [# c& H. ?8 { 「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」 3 T# G7 d' D% b1 b) f& E 3 F6 Q) @4 ^& ]0 j% a 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。 0 A6 ]% C2 o2 V 2 l, j7 x( `1 i" ~, [+ x( X 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 5 }1 A8 D9 W y _. ]2 M% X ' B" ]1 \ b( H: t" R+ Y0 b そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正)8 w0 m- ?: R9 i- S- U! R: ?
% G4 ^; e2 H& z◇ 1 A& }; s& a4 S* a2 `% I8 L- @2 h ~) ]+ e
【用語解説】戒厳令 / m+ ]2 p% \* k5 P. w9 E* X 4 p4 ^9 v9 ~$ r7 Q4 N [ 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。) }6 a3 a3 \! T2 t- N
5 A1 Q4 P0 x/ |5 A5 H
(2007/03/11)
% {9 F7 R2 t8 J) \% ]( M 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。 0 z5 w& N! |$ L3 [# X0 U ( x5 W1 p. a" |2 p% } 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。 ' K2 ?2 u/ @ X6 N" K& }: i3 M2 ^$ n( t6 ~9 c4 x
天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。: x. t) T, ` h% E$ `
2 ]+ K7 v! W3 _& E$ W
それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。 : g( G& F# ?3 [3 ` % K$ L7 d i: d4 b7 ^7 V 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。 4 g3 ], [8 K; z" L" k, N% g' z5 H9 i F. n/ |, P5 R
学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。 " g6 \/ ]. p9 q) U- H/ V3 a6 p7 G+ K& o2 Z; u
「裏切り者!」 9 t" E+ V* `) A0 O7 g, D( X2 V& I+ F3 }7 U+ e. g; y9 u7 P
「さっさと消えろ!」 i0 n% s9 U! Z* N. H, |% \3 L) i1 `( i4 ]6 n0 w$ i
劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。5 L2 l+ U- i. h
7 V& L3 M3 D# ~% E; L
すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。, N9 [9 E3 \( [- }
4 f8 P8 ~2 e# W8 b+ n) L
天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。 . ^$ _- `! y7 b- ^4 _# S+ q5 A4 l6 }2 f! }9 M4 N% G8 |
「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。 " D; r# N- R. F$ X# d8 h. }' {! m " d- E( Z/ x% [' n6 \ 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。! `' u! f5 a+ m
3 G: N; `$ b% Z7 U. \( K) B トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。 ! M' E, u J+ C0 n5 f' d( d$ c# r& P' H; O. ~! x" p" j
しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。7 e7 ^, \7 r6 i5 Z3 Y
/ [9 [, R; B- K3 R. X 「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」' F9 C$ b4 L% q: Z. O) Y- b G
- m& a7 |; L. \1 ], @5 e その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。 9 W- ~6 F0 B5 W% ^ 3 [8 c2 y z5 ^0 {# d (伊藤正) * x( Z3 a% o' _/ B! u* \% \" G" g. H
●=木へんに犀 ' L+ K9 `( J# F) K ! i, S* s1 s2 W3 c1 l3 d# p◇/ k5 V% q# f4 N! t1 q
! b7 W- H# Y* c9 k' U# E【用語解説】人民英雄記念碑 . q b" O, ?) x ! J# p2 P) |+ R, {$ s% ^" `% u 天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。9 u `( a$ F; t2 w+ t. O9 S
8 b6 f5 z/ S& s, Z
(2007/03/17)7 l o( W$ R: V# [7 L: s, u
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 6 }. z2 Q3 v* P4 b* B l( @2 I) V 5 T# E( C u% n1 {4 ^0 A春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。2 ?, N4 |9 F h2 l# R% C# J0 H" Y
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, F% j6 N, K0 B* T
期するものがあった 5 a2 A" o$ c/ Y" T8 L ; \" q [1 x4 L; F" e/ f4 @8 M+ b6 f 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。5 j( ~' g$ z- z c5 u) t
8 o' c4 b! S8 ^) j z) G 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。0 ?- ~+ U- W$ U! T9 O0 s: f
. \8 d5 v7 p0 d+ s) D$ ^- L 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。: Z" p- Q: q( u9 e, k
$ J, W- r8 K9 G- v7 N5 A p$ t 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。 $ L) A; _' E: ` 4 N: r/ P4 _# ~# E! s$ E 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」 4 m1 g% A. a0 G" C8 K 2 l; L8 g$ {, h トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。" T. Z5 {' _* J
$ ?" B* S7 E" x- z7 w {: M 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。1 q% ~8 t6 H/ R4 m; a
8 T, T9 i4 F/ @1 Q! { トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 1 T) Z% N5 r: T$ F5 _' \ % s8 X8 e2 u, R トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。3 f) r! C- [. W0 @
6 J: T' y) z! V: l9 c0 h H
劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 ' r4 n/ H" N* f1 a% F8 N 2 s% b2 d& d" ?$ l3 w, s 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 ?4 M' H! {; r% u3 g1 [4 Z4 y( c/ O' \2 R q* o1 j
しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。 & p9 C& u) N: a( w, p1 O; }0 w& ]& o4 {+ u2 Q5 J6 ~, u8 @5 s9 ~
トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。1 \/ H' g8 U$ Y6 m% [
+ g8 I$ o$ ?( c. ?' {
それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)& ?1 v8 W1 U R/ Y8 }7 u# B
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■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 @$ ] z6 x J# F9 z" R- ~0 K p! l8 e3 l, X' T, Z: G0 R1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。4 g2 K, o0 K+ M& b
5 M& Q' W9 w# k5 p9 H1 n. X3 N 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。 & o7 m% P5 \; a( U# k \& Q! O! J3 Z
本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 " v" A U2 F2 q; I 8 {7 y0 x, w+ E& \ しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。% K' V8 C3 h, K9 _
& F' V3 s' z A; d5 z4 y- u 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。 E/ l/ u# r2 L1 ~; H, v2 c. t
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私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。 f' d2 z8 \3 U% I- |$ S " m" B/ f( Y+ Z" W+ z5 k8 I その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。1 O c* F ^- e. {- T4 \* m
' [ X# y5 h# k% [# l1 } そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。4 |: v o6 i. x4 {3 ]7 X
6 _$ n0 Z. V7 q4 q( x5 r/ {7 h 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。; S, Q+ \% x. u: j
! c2 U- M. \1 B0 L; n( p8 [) p べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。: H: N" }4 K* t j2 L. a9 e
; P" S) f# ~1 ^3 t3 g トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。 ' M0 K5 Q, l+ K+ K! z: a3 ]2 A; y7 y f
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◇ % ~- ?: E3 h( X* h; U $ ?9 M1 b1 _- T$ Q& P 8 }7 C+ r5 O5 l& x' ? / u( h/ A) G, }5 Y- `# O/ c米特使が秘密訪中した/ U* I# F; \ s5 C/ {
l2 T& h U% m5 \; T. g9 I9 i 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。 # O+ {- j7 n j, W. z; Y# V- I( Y/ ]! u6 L, x9 I, n# ^2 c
しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。( K8 ]! p5 c, h. W- M/ P% F
1 p0 _8 O& [6 v: I) J ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。 - i' O. b: l' G5 g/ `! Z0 G& e) A. k3 L C E+ w" v
ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。 n( g, K. m1 x, h, M4 C) C
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「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」) F/ I5 r$ A# R5 q U+ H7 B
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中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。/ s! s- t$ k( N+ v2 @2 l$ [
5 v* h+ \) E0 ~' X# f トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。 % Z. Y1 A5 E8 R8 {# o 2 A: { b% d m7 ~1 h, A' ~ 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 & p. d% @- m# V j: E ~* Y/ s- L4 c% Q I4 U5 t2 o+ o
米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。 9 @9 H7 J5 w" A# p# n4 O0 O / L% k2 e% g: I 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)8 X# j& B" w4 y$ o X. f; X7 F
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◇ 2 C; x& D* {, g. i# N* V! O* M ; d# W! I! k5 p 1 ^6 y0 b r. s( r c! e' h1 y4 u【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。 5 U( p) t8 S: p+ r: x+ f5 A% q( Y& B2 d* p
●=深のさんずいを王に 8 u/ b \! U4 y5 S' z+ T # \2 ]$ C" R6 V$ F% {+ i, I 0 b( y/ G* U8 C( @5 H! S & Y) ?3 O& U4 F; ~天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙, e C+ f B" \4 W' u
【トウ小平秘録】(36)第2部「南巡講話」 瀬戸際の改革 0 o v7 T- q& u1 f/ w$ }( }9 R9 [ h" u9 P
1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。 ( b. `3 O% c) [6 F2 k2 J2 A3 w8 r
軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。& u) X! o F- ~6 [9 r4 n: p
! F" c/ K c% k1 H , G( c I& H: Q& l) w米中関係の危機だった; `# G0 {! d- J
9 o2 w; R K% C 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。 + ^6 y0 P; Y5 H # N0 \$ x* U' m* i' ^# H* L 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」 - j+ I3 B) i* y/ b$ e( ~5 b, p ! m @1 s# v) P 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載) 9 d" V4 z) h& e. I3 C6 s7 C' | 6 R7 |* ~ a, |4 K9 f* @% i 天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 $ c. V$ I/ u2 [$ J1 I/ { " j" _% d0 r1 g' s/ E 雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。 " H' r4 S1 }: K: s- T , J" ]- e% y* J3 }7 M" I しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。. k7 A) \3 m8 S3 j+ M8 J5 A
. s$ |2 g5 v8 X) y その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。! ~# C' p7 D! N# U ?
' R1 R0 |% o5 l6 n 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。/ S0 v/ g# R3 N* S, P. R. s `
U; h1 \8 V( A. h) _" x0 ~ 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。, X- c9 Z& f. e6 I: }
. C! G- g- D- o$ u4 {3 L8 G) A 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。: C6 P5 g1 X& h7 T! E& ~& R
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79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。/ f: J. r8 J, N/ ?) E4 V
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: r q+ u M# o4 c( @弾圧も正当化される2 y4 t/ K* R2 o" Q; d3 E b1 M
! G- n! v( V/ T2 ^6 C2 n. ]' m 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。7 o! b5 h1 b# i. a" J8 p
r% [( z& Z1 G8 r- Y 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。1 }- r/ G1 Z' z) E1 r7 N
6 [ A! C* ?# r- | 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。 : |# A+ {0 ?7 N% B+ h* Y/ h3 z / [ p5 ~, t$ D& @6 i; |' S3 ^% g 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 5 V* I+ C2 y! O$ D 9 F: r) J9 @# ?. x9 C そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 : {) d. \. J# b. g* k( \! |7 ]) n( q7 E
(1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。 + M! G3 |$ A8 y Z, \3 k $ C8 p2 @) m( H1 e: q9 E これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。 6 h. K, ?' ^: l: L( d9 x- R* h # ]5 M3 n+ k( q" z: y4 } 理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。 # _ L& s1 j1 I& g; t2 ]+ [" N, ^. N" J; v( u3 r
天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)( R# X3 k$ c: b9 Q+ w
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■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。" u m. G. b9 l9 T# l9 B9 c2 `
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●=深のさんずいを王へんに. A/ [2 `" G0 N+ i2 O% W6 M. e
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天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時) ! @7 h% e! E& h" B$ `. v0 I + Q6 A G1 ^7 d2 K6 h/ C" k, w& x& R6 w6 y7 J+ e
1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した