! @* e% e& v, i1 f/ F中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」トウ小平(しょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。0 T, O+ E1 G6 h$ S% e
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毛沢東の轍は踏まない4 b8 N7 K& I; B1 X7 F/ W
8 {: R9 H/ M- q* }. a/ d. R9 M; S; Z死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」による措置だった。書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。 3 j* r# S9 Y7 p" R6 n6 h" ?8 b ; }) {$ t& Y4 ]& w 合理主義者のトウ氏らしい遺言だった。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠り続けることは難しかった。 8 h/ {! ~, v3 ^/ R- z2 s. x# c n8 \: n4 Z" `1 | トウ小平氏は16歳でフランス留学に旅だって以来、四川省広安の実家に一度も足を向けなかった。49年の新中国誕生前後は同省を管轄する西南局の第1書記を務め、中央に転じた50年以降も5度同省に赴いているが、家族でさえ89年に三女のトウ榕(よう)氏が訪れたのが初めてだった。- \9 H2 {0 ^+ E8 N( D- a( ]2 v
' L, z2 k7 e/ x) d" O. f0 G2 F; i, O) Q 仏留学時、「二度と戻るな」と命じた父親の言葉を守り抜いたとの説がある。頑固な性格から出た説だ。4 y x2 T% z9 X6 N4 V: N
, ^& f6 C$ _5 O$ b トウ氏は個人崇拝を嫌悪、「公平、無私」をモットーにし、出身地の利を図る傾向を批判してきた。だから地元政府からの故居改修の申請に同意せず、各地から相次いだ記念館や彫像を建てる申請も拒否し続けた。! g1 x o" C' ^& M
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しかしトウ氏の死後、故居は修築され、広壮な記念施設に変わった。彫像や記念館が各地に誕生、江沢民(こうたくみん)前国家主席が看板などの揮毫(きごう)をしている。 % e7 r% v5 p I! h7 l 7 t; [% l# E6 m7 q( [5 Q9 }$ a トウ氏の生誕100周年の2004年、胡錦濤政権は盛大な記念行事を挙行、大量の文章や映像が発表され、「偉大なマルクス主義者」との賛美一色になった。一党独裁を堅持し、経済発展を図る正当性を訴える上で、トウ氏の理論と名声は政権に欠かせない。 ! C4 \/ X- d0 W8 A3 O# _" E 1 y0 {5 G" U1 @5 E だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。' @/ C( D% x& ~2 p: W3 |
* m6 t* W+ l7 i' R トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。 + d* R$ X# C. D % Z3 t, U0 P) [3 F. c& a( { 共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。 " w: g# W" w: P ?% Q; s, C* J2 T& ?4 }
改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。 8 l7 c7 F+ A1 o4 ^ c4 }" T/ v9 j0 p+ i1 ^& x$ G
豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。 2 @+ J! _7 R# X! S a# K 8 a, R& C1 f. r$ O$ R/ U 3 o0 H z4 d% N$ t' i* X
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矛盾生んだ「先富論」: m4 O: t! N% V8 u& Q8 L1 R7 C
8 m7 H6 z+ A8 x7 Z: s- O! ? L トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。; P# A+ i9 I/ H1 x( l% F
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それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。$ u) y7 V( A5 c5 V. H4 N
' ~- w. i/ A# y5 y* Y: e1 v 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。# j. I8 D( [0 q/ ?2 c6 z
8 F$ T+ c, E8 G8 f! R. c. n トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。* g. v, b3 C- y8 j E+ a
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「富をどう分配するかは大問題だ」 1 A* y _) j7 l( }, N/ `- v- |) j; n
「この問題の解決は発展を図るより困難だ」 , j9 e4 Q$ @: s1 ?' Z 7 K# s3 J" ^3 C. J! ~2 P 「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」 4 h n6 g+ _7 h1 c$ Y$ d $ A& D& g; J% F" \& i4 \ トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。+ `. j9 Y8 I/ v$ G1 Y# U @8 B
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トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。2 m& ~# n9 ^: j6 E
/ U3 l" ]& I$ M0 p 経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。- E* x6 M" W- ?" f) a) y
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毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。 9 I( `' {% S! d6 w; D8 H9 @ ; v) i. m p b/ o 中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。! ?: k/ }9 a) U! c1 Q/ G3 \) x- m: o
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トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。 3 }0 L% @6 m. {( f / J. \ j) l( T2 I; b/ }( V (中国総局長 伊藤正)3 h# j, \; {6 C& d. N6 M
邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟 + j5 D& t3 `" y' V 4 E* I, g. H& A- w( {9 S日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。4 W5 c+ O; p7 j i
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文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。; v3 E& q/ D& K
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秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。* f9 D8 h# o! {+ q7 c
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胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。 0 X k6 V6 o- N& a& ]; X5 n , k* R+ M! B* W- J6 v胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。 + r6 j4 N h3 s/ S . Q0 j0 S f" w邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。( P% a7 j' I9 D! s
# B2 C% I' G( K4 z( r# v6 N一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。 . J/ r/ e! I/ ~( B, \6 y: B) q+ y' e9 f0 X5 X3 [( f
一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。+ p2 o9 S& Q+ Z' \- }+ f8 z
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【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死 % `1 |& L! `& O4 P 5 G; G2 z9 j: Q: \. i j今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。 * y0 ?: [, h. B* N * H8 z% d) | H' ~! z T猛然とたばこを吸った$ O& b& q7 I$ w5 U# I( a
+ ?+ ]" T1 W1 `; V& ~' u3 d天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。 5 g4 q/ q* } _ ( E# P" e& g. |: E 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。 ! A% s; W+ _2 x; P! V6 ?- F2 I. Y4 K3 H& H) m+ ?6 R U
当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。 8 e5 D3 s: f, } ], `3 x1 f d; A& \5 S% A' u そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。# [" Q3 o- N9 q- r( Q: Z5 z
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89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。 - g; m+ g4 f+ j, F5 r 0 E6 `$ |* j* `/ E 予感通りに事態は展開していく。 W( Y- @8 q4 k8 d9 S9 [+ X4 r* Z2 e7 d6 M0 F+ J
訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。: |: @7 U7 r: b: [* p* b8 G
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そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 2 F) c$ J; J+ }& u8 N- Y+ y! e : j0 n m( h) k- c e, h* q 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。1 e9 n% u: V) w# g$ A
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」 ! M) H) I) S4 x( `* P2 U3 e5 E/ t , T! |! L# e0 }. J R: c0 }, X 胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。! n+ }& H2 N% V$ e* ?) r( k( T! f
" V8 C$ S" L1 y z% R! l# R 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。6 F& g0 `* ~2 a, x$ Y
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半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 6 g6 _ ]6 n8 E! H) M4 O% S0 @( @0 k3 y" w( ~5 s
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。 ) N3 {; F: i' }5 V! n9 ~3 P; y4 a! H" z, m0 B [' r- ]* J
「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。. C" ^5 z$ y$ z
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天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。. r' B4 t9 {7 t g
" A0 c4 G9 r/ Z さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。! @- N+ o" I) o5 T
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その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。 ' G+ U( a- R- u4 L% R P6 C, J& A
(中国総局長 伊藤正). }8 Q4 C+ c6 d
邓小平秘录:方励之公开信引发保守改革对决 # g8 G+ i1 L* c* _+ R( o9 u" h* m3 @ x# B" p
日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导指出,一九七九年三月魏京生遭逮捕事件对邓小平具有特别的意义,胡耀邦曾要求不要对魏京生处以十五年重刑,但未被邓小平接受,方励之要求释放魏京生激怒邓小平,使中国发展形成保守派和改革派的对决。 ; k a, l- V# J5 Z5 e) J0 z6 u+ O3 J) K a0 ~& X
文中指出,邓小平时代的重要特征之一是遭文革迫害者占据中枢要位,批评毛泽东时代的错误,由文革路线转为改革开放路线,邓氏为夺权有必要打倒毛泽东谬论。在理论斗争中最活跃的是胡耀邦,知识份子在一九七六年第一次天安门事件时不是系狱就是毫无力量,但在一九八九年的第二次天安门事件则扮演重要一环。" b6 M# T' u+ Z5 v
/ f3 w; T9 A \" X$ c9 h 一九八六年十二月,天文物理学者方励之由于煽动合肥学生示威罪名而遭党除名,但他仍继续推动民主运动,一九八九年一月发表公开信要求释放魏京生,这项要求激怒邓小平,次年二月老布希总统访中时,中方阻止应邀参加的方励之出席,原因是魏京生事件对邓氏来说具有特别的意义。 . f. b+ x0 G$ g. \* s* k- a# z6 w6 |9 I5 z1 }
胡耀邦在一九七八年开始攻击毛派理论后赢得年轻一代强烈支持,发展成为要求民主化的大字报运动,邓小平最先是支持大字报,但魏京生将指责箭头指向邓氏后遭邓氏下令逮捕。秘录引述目前住在台湾的胡耀邦前智囊之一的阮铭的发言指出,魏京生被捕时,胡耀邦并未希望重罚,一听到判刑十五年的消息后大吃一惊而追问邓氏,但由于量刑是由邓氏决定,胡氏毫无办法。. ^1 I0 B& E' l0 |# `4 ~( T
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邓小平政治论理精髓的「四项基本原则」是在魏京生被捕的同时发表,核心是「党的领导」,亦即坚持一党独裁体制,攻击邓小平是「新独裁者」的魏京生也可说是导致邓氏「四项基本原则」的产生。0 Y, N5 l- a) {
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方励之的公开信刺激改革派知识份子,要求释放政治犯和民主化的公开信接二连三出现,而在此之前,令知识份子提高警觉的是电影纪录片「河殇」问题。这部作品揭发中华文明的封建制和黑暗面,要求改革,六月中旬在国营电视台放映,引起很大回响,但进入七月,开始出现反弹,党宣传部虽驳回再放映申请,但赵紫阳大力称赞作品,默认上海等地方电视台的放映。6 k3 z: L* t7 o4 K& E. l
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赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。7 N, v. t/ q3 F
( a2 @' y' P$ `# Q中央社 9 H0 T; B* x% z4 E6 T/ R, y0 n% R' f/ [' V M0 F9 d. |: S, H) x. P
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2 S; e. z/ s& W. D5 L5 T9 S, S* {【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件1 L9 R! h$ e0 `8 {
トウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。 1 _$ Y5 Z0 q* z% g0 @0 m ' v7 w8 e) W6 e8 c# U/ \ Y/ ]8 v5 _0 M6 _* g釈放要求公開状に激怒7 l4 Q* a( T6 `: f# d
簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 * R2 _" s, i$ D6 }* x
トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。 2 p8 P6 x7 O* c, |. w; S3 F. m. o- z
この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。& n: @; S3 Z1 s. d, d
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第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。4 c! T' W& T; |, ^ g
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前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。- y6 ^6 ?( p4 `4 N" E
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方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。 9 T+ Q% Z g- x5 K" D+ X- ~. ^9 u6 s7 V, |; E
私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。" ~! g( a" L( l1 ]6 x6 {% V! t
1 R" s1 L/ u8 m' g. I; }, v 方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。* N# i1 M- x% {- I+ G
- i6 h% D- _, T0 S& |' Q. W) N攻撃の矛先 民主運動へ T- Y2 i7 f. B' ]& ~; ?0 n 胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。 4 c' ~9 u8 ]6 @2 V ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 " q" e1 |( c/ r5 Z0 m+ Q( g$ C 6 }# g0 B6 v+ t' L4 U) x 当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。 & H9 o6 ]3 R/ P, a' k$ U, y : \. F' S8 X0 \/ S. Y( z% b 「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」 {" E! z# T& I' ]( W1 o: {
; {5 b1 m% o0 ` トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。 C1 v l6 L+ ?# }) e4 R# t% M4 b% M4 P6 Z4 E c1 G8 d6 k# W
天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。 4 P( \% i& P3 R% a$ ~6 g+ B* L) |
それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。 7 P* v( m! o# Z4 l8 P( M0 i ) b5 |% J' T6 j' X" `1 | 中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。. \7 _3 j( ]8 f, B/ j/ | L
$ k3 i6 ^6 m' R- G- k$ L6 I% ~* ^
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。 9 D" J$ J8 y1 P1 Y) D. g 2 [3 N/ d% S" H. q0 y これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。& o% J0 H& o, G& l7 b, m* [
0 M$ \0 D; {% K8 }# x7 e9 Y+ X1 h
中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) ' A7 E+ \- }4 i$ O. H◇* a# D( a4 _5 h' Z E
【用語解説】文化大革命 ' B7 T& k; X# b+ a- m: i V7 o9 Y4 x$ c 1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。 9 F2 I7 m! \3 u3 B" f! j5 `9 _% |- o D0 Z2 p- A1 d
◇ 2 @4 t7 S& r& K& c) b+ `! r2 t0 [+ |【用語解説】魏京生事件 * ]; z7 [& H1 B% @6 g7 D , }+ l2 d& ^# J* K 1978年秋、北京市西単を舞台にした民主運動の旗手、魏京生氏が79年3月に逮捕され、後に反革命扇動罪などで懲役15年の判決を受けた事件。壁新聞による極左攻撃が主流で、トウ小平派を援護したが、トウ氏が権力を握った後、魏氏は「毛沢東と同じ血にまみれた独裁者」と批判、トウ氏の怒りを買った。魏氏の逮捕で運動は下火になり、壁新聞もその後禁じられた。: ^$ n+ [5 I; G# Z. F4 o
5 v# S8 c+ Q }
(2007/02/17 08:18)
8 N/ F3 P; x* \; J改革へ深謀、トウ・趙合作 : M6 s* n0 Y! v8 e' F: d( j1 O! h/ y$ t( j
対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。 - }; V* N) v$ m ! `9 s+ M0 _% |: I) k 党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。 - x6 a. G) [. G2 r4 N8 |- y 8 Y; K/ [3 D/ Q$ m$ {; h: E トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。 / h/ c5 {; R- {* Z( Z$ N ( O1 G, y0 K8 i1 t. Q, X トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。 8 |7 z3 n$ z5 E4 h, ]5 M) S: m! s7 W. s
党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。/ r" u( E9 r& b$ W Z2 w
( c, |: `: c) m トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。 0 a- g4 \: n/ G. Z . Y% l" Y5 W5 w その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。7 t. r7 f* r5 l1 }* S; l( z
6 u! i$ t1 R* I ≪長老たちは引退せよ≫ ! x2 r9 J8 T8 A$ J8 c, A O/ K! Q. _0 o
胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 ( A( i) E' s. ]) k$ x 2 N8 U9 S: R) }) G トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。1 i" b+ a- l% ^( Q
, N& D K' l; U) X 「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」; H, P: k- T& g$ f: ?6 g
% r7 e, Y. O/ k Z; N! @ W4 R* u 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。4 s9 M8 J/ i2 D+ R5 G) ]( A' g
' h# ?% L+ r6 f. V 「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)! X0 P$ E) s. h5 K- v9 m) R
5 o$ n! ?2 s4 E* F
13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。( Y$ s4 k- H% f) H) v) @% v
" P' d; D+ R. `8 N( R 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。 9 \& A$ z6 u+ @2 T1 W4 t! V e: J0 v0 P) R" L2 l7 C 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。2 ]) U, U/ ]5 L( |$ U* d
`- M) t8 c1 y) L3 } _; A' f 「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」) i' M7 q8 O" w s9 @' P
w# E% f1 \) W9 n6 T
トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。 ' H) W" O8 b! J% j3 _- B( h ( Y9 p# _. c3 C H トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正): P/ B# C1 P* E M
. q0 \( z6 u2 l ◇ 4 n- e0 n. V$ i3 y& G+ I( K+ p6 l$ H! G$ Y3 s0 @+ p
【メモ】 # v/ d) ]! U+ n: m$ o. r8 A: y ]; ~& `- U; F5 |: z* b% G
中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。 0 W* u+ k5 a3 X J; d. F7 e! S" o: i: R, f& o
中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。% H& U% G- v; d4 ~
+ T& ]9 u! c+ ?) N c7 t
中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。 . _# z8 ]) m. [7 Q1 H2 l " a* A8 o: L& P1 i(2007/02/21 08:11) * A; T. s: }/ d p4 c8 R 8 ~, x0 Z0 ]: T/ [5 T. g& F; y% g* y7 V
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' o4 n) q4 v! ]7 ?; h. n4 Q
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" x, W3 q9 R P7 m+ ?. ]$ o
& k. L8 O9 H0 e* z0 J. l1987年11月、北京・人民大会堂で行われた第13回中国共産党大会の開幕式に出席したトウ小平氏(前列中央)。向かって右は趙紫陽氏、左は陳雲氏
$ S/ M* ~- _" ~3 w% p4 y7 c; w 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 5 e \2 ~& {& g- H4 u! e+ m, [' K9 U! C3 m5 I
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 " ]4 d8 l- a3 \8 ^, R 4 }# _ B+ Z2 e2 i, ~# z+ j$ {3 U p1 Y 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 0 n U% ]6 b8 _: U- C' @# `3 v6 m& g
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” e2 D* u/ v( \ K
; F4 S! s1 h! o2 {, h
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 4 X( P, h& x) j# Z$ F
( K6 z' i9 ]; @. W) W
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 2 b' c+ }% q. H. c0 J+ f , j% z1 b1 m' V 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” $ K. n9 t1 R1 r2 ?2 b( e . c& r% u4 y% h! a, x: S( [: _* b# u( R& c) |& \9 E# G
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 # y# B) U! f T1 @8 N7 O5 `+ G" {
, }. |7 N9 \4 n+ S0 I 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ; X P% |( |9 S8 O5 }" L. m% Z! ]
7 b% M- G4 H! _+ n 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 6 F# e; F% H! Z5 I+ t7 {, w) L' B1 M2 K V
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China honours man who reshaped world% r6 |, m$ G' L$ V! T- e- X8 E2 ^
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 1 C* \/ ]5 q D5 ]$ z _1 p+ L4 R) j7 x. x; V# O8 r
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ! O. X" T+ ]6 d, _9 ]- {
$ f/ H/ [6 K- l# |* uBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. , o/ }8 ~9 j- z2 u- }& T- x0 z
* g9 J" W5 c2 ~) _4 d- VHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. - R+ ^: S# z6 N4 Z# z0 E0 { 1 u( g' D) T. e/ {“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 0 T" b% E9 w/ u4 g u / b. R$ y3 }5 J9 y4 _" cMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 5 m% W; D8 \" |) H- F& S 6 N" h: k& q# w3 \/ q% f7 QMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 9 N3 |5 s% U, r
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” & S$ i1 l8 a" w; i$ l1 h; f; n+ R3 m0 A; W3 }( A; W7 I c
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. : ^* q& d" h- }4 ` F, R. J
% E6 i5 v' t! `3 z- q7 @Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. " [# U" ^6 u. A9 W, p( J6 Y1 g 2 }6 A6 }3 k0 \3 [ cDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 8 d& q" K* v+ U" M5 [2 |/ l
3 ~1 N+ ?9 d" n6 r5 THe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 8 T' {7 e" A) J7 y( d# K/ P6 K1 y( p. s& U
Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 7 o' x$ J$ O% i& X* L
: |* R' C! c% o0 I o2 ]1 Y! u0 eMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. / U+ D% }. ?6 G8 ]# l1 D# o# ^0 B; o+ C* i
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. ]: c& t" H5 L
2 \3 N3 X: \% e _3 b i$ dHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” . I! R/ q3 |2 Z- M" h9 a
2 O! T h3 \. C. y% v WLong road to riches+ \- }1 W( j% t2 \. d7 _- r
1 i ~$ R2 S0 A' \" a4 eNow 2 h% j0 Q/ F/ [8 K; i' N5 h$ ~6 q% f$ T
1 N4 g5 I1 _4 ]: h# g
Population in cities: 550 million 6 C* k6 L5 I0 l5 ?5 k6 v6 l. i z% D* u
Gross domestic product: $10 trillion # k3 s* k- j8 {, X- }) m! ~
; W$ E$ z! s" K4 a/ |3 z
Oil consumption: 6.5 million barrels a day ' X" N5 M4 G; g V0 ^
) X' \! w. o8 Q* Z8 xPopulation below the poverty line: 130 million + R3 i1 e7 p) m* a9 y' @$ s3 e) i3 w
Ten years ago B0 p1 m- l8 \# n! |
' _6 V$ V! p S6 p$ _$ b
Population in cities: 370 million / h- @$ O; i, }" G L
2 N! W" M" O, _5 C! h1 D2 O% p0 ? HGross domestic product: $4 trillion * q7 y& C4 r4 T( Z9 |) B1 x, Z! n: R" ~
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 2 L( _1 M+ z4 W7 r( c 9 v3 T( b9 u$ y! N9 ?+ S* oExports: $182 billion % G, ~" v7 m6 x# l; Z( J9 N' k
_) _) f; }8 `; h+ ` i( w鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 {5 I" e* _7 I( Q$ f + M# v' M5 q1 ~2 d9 z赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。5 `2 a0 m7 `' o- q0 n4 O
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一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。! S( Y$ b! a* D' L* \3 l
9 I+ {) z4 D% j$ T6 l$ s
未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。 . w( N' x8 @& s9 r( \$ d6 @5 x4 x* r* Y& q: _! s* o
【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」, u' H) p d! C8 t* Z2 j
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趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 ) l( I' c% J0 ]- Z1 ~$ `2 X! E4 n" j1 C* e/ D- h1 ~
2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 9 |; e" f% G6 w& o+ }8 b6 U- B' W) V
「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)( g/ ]- c- e% B# k, ?3 h
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この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。- ?4 Y0 v8 ], [9 l9 i+ G
! i+ f5 r8 Y/ M+ o/ B* M# a" J 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。. s! {* m0 a& h" J5 M& S- g6 L6 g
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中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。 4 m1 b' W. N! Q+ k% u/ a6 X5 T' S. B: p) j! [- q. `- t8 o
しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。9 z5 \; \3 h" S( ~$ v/ c2 J) O$ `
9 @: ~4 E7 a. Z. I7 ]4 a8 g1 o6 y この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。0 C. H) L1 F0 E% n
3 p* }" D1 U; Q; B [ `! t しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 7 c6 ?' A2 T1 N " U0 ]4 I$ w) Z* K ≪パニック買いが起きた≫. W O9 j3 }! [ v+ f, F v1 K
) H) M7 Y# O$ L% H5 z4 Q
ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。% Y( A0 v$ _9 ^5 t9 r6 s( j* e
5 g- Y! ?: E/ v" q7 j+ N) e4 x2 S
趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。' {3 ^: ~- k. Y/ a
# E6 B7 w; _& N) s% ]% Y 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)5 ?# B3 c# b9 ^: n+ T
- K3 |- t4 l* V# ^) H5 W トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。( E. z7 d. m5 Z
' ^, @; _* o4 K# [. U. I" P' ~- w 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。 & E0 @. M8 t+ b5 {9 H' m+ d9 I) t* c& v7 X4 l/ z* H# y4 W2 ^) x
5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。+ W7 n9 B% O# i2 [, r8 G
& _$ `% w+ ~+ d8 x% G% L3 @, Z6 I& k 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 5 x4 ~1 j$ \# ?& Q7 s# R i; Y9 M7 ]! K
その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。% n* u1 ~5 M' H ]2 i
! Q% b% h) f/ x4 p+ j m5 Y
ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 2 |; R' O$ {$ [7 E2 _4 d' @) ^' Z+ Z, e/ v! c; @0 k: y
趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)5 F8 t( E# Z/ g: z c# G! p+ ]
$ g' Z# A: S) g) S; i ◇ , | Y! H Q; r+ _( U+ O/ H4 S ~9 R2 l5 e/ b3 q
【用語解説】3自1包/ h1 K% z1 _7 C! X' v
( X7 y% g( z% U# M( H
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。 ' b$ r& K: c* y% j* W2 a : p8 [/ T" B) j# C& q6 j ◇& y, S3 O! {- P8 e5 i) }
9 b1 ~ s* D' E/ Z1 X! ?【用語解説】北戴河会議 ( s* z1 |6 d5 ]- b0 I ' G5 ~6 _" Y; Q& L3 I# f% U 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。 * z5 H+ ]9 V B- ]. H+ q) {* C6 _/ E5 E
●=彫の周が丹: d& k) J( K: q8 n
) t2 Z# f$ r; ~( d7 j8 \8 T 陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 : [& b0 `1 c) N& t) M y4 `5 Z+ ~0 G, t, S 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 $ u5 q4 m5 P' n" W6 m: S; Z+ a" f9 x! T1 y
93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。- R. T, X8 l% s0 Q: N
' P: W( v0 a) b( N( h4 z トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。- ^- Z. C' M1 F( {& ^9 P
" N) u5 C9 z, |: E2 d
しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。2 h7 D2 e9 |4 d k: w. e$ K
' J' f9 m, K( s O
北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。* ?: R" ^5 E5 t( p4 T0 N- I
, e2 ~3 p, I, J! k: M, ?: X 当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。5 ~# A/ s$ N2 N/ A
[: M+ A( X$ I この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。" b( N. O) H- C. J! y0 v0 @
0 {4 I' `, w, t( Z
新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。/ A2 p5 {) U& D$ A8 V# ^) a, F
8 U* [* f% P4 i' ^9 b それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。" K3 k- y- ~5 O$ w
/ t' E z6 Q( m5 b: ~ 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》 5 C( ~( S% b# r6 k( c/ C( u. x6 l) f. [3 v
各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。 ! g# r+ }+ d5 D. A& \ g* D5 P) V7 h
これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正) ; F8 Z0 R7 Z+ e8 ~" X0 G/ m A3 a( [8 A, d) T6 \# n$ t
◇ ) l6 _ o6 X8 U! }. h1 w" z! R1 `" R$ q) i8 i% h
【用語解説】トウ小平文選 1 R. Q) Z1 l# F# g & c* \( C. Q6 P: s1 E) G# ~ トウ小平氏の発言や報告をまとめた公式文献集。1983年出版の第1巻は75年から82年9月まで、89年出版の第2巻は38年から65年までの言行を収録している。93年刊行の第3巻は82年9月から92年2月までの主要な言行を収録。第3巻に未収録の89年4月25日の講話は2004年刊行のトウ小平年譜で初めて一部が公表された。 5 X1 q5 p0 g( c+ ]( k& ~ ) J1 w) X7 _! J4 ? c, {! S7 ]★=示へんに其0 t7 F1 K5 z& @, a1 |
& a% V. O7 f1 F* k0 ^
(2007/03/02 08:13)
+ O3 q6 ~3 \ W3 i4 w その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。 , |% `6 K# m Q1 c: g2 w, H+ U% w. i6 j
それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。* u, g5 p& A2 |9 d
3 F. X! q, q6 C4 D 趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。( S% D+ W, L# v( P3 M- ?. `9 d
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許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。 " n" o E. k( E9 y / b8 {. c4 m; R 趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。 2 Z0 s" m7 ?2 y% I- k H 1 f, U# S# g. d" \ 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。+ Y, G' d0 j1 T( d- p( U
' T3 Q" {. {$ i6 Q' i$ ] 「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 : N0 a7 A% [* i 1 @1 ~' q( h0 M' d( Y: E. ] 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。( v. _5 @, X3 \0 [) _4 M9 s" S
7 g8 C, l. P _( J i! g 3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。2 B, ]+ N. U: x
; `; y4 q* V$ j6 q7 v. E" X 許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。 . d* e+ [- ?* T6 u. y& ^' [$ g V: t0 i7 [5 n
趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 ) E' Y9 ] q3 R* ~8 P9 ^# @3 c ?% l1 g ; _9 A' G; s. T- v 前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正), k$ j0 e: s- t7 ^; d. D* P
6 E' M! o. ~# g9 q4 z9 E 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 - R3 {$ m+ B! v# O' Q j/ z4 A2 q" `4 A) s k
しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。 % M# w0 d: f* a7 q4 I + }* ~/ Z6 }' f7 v& y% [$ S" y6 `0 `% n 陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 ! {1 X: F& h6 ]9 ?$ D0 K2 B( @* v. m" t- ?2 b2 B
そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。2 {! Y n7 `4 c: z1 n' O; f: S
0 y$ {5 j; e1 A8 [7 V v5 m! D それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。) C5 O5 o \ x ^( I: X3 ?# ?, X0 m
7 q# g* a5 a9 B, E4 D/ A0 E" w( J; f
「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」! l, b+ W# Y- Q# y; g
0 l; {+ h# m6 x( @% ?/ ?- x- O' n そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」 ' X* V* S3 N r" F" G1 J 8 |1 |0 e7 t! g# m& d/ F トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。4 W: K) W: y5 n: T8 l
7 c% t: x C1 b# L6 C トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。5 } n: K' J% O. g/ P9 E
1 a {6 H+ x( h$ Q2 C
《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 + }6 R- u1 L% { \" Q( u 9 \) \5 M5 X7 L- q, g: [ v& l' G トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 % ^) ~' ^/ ~7 d( E " w9 S0 O% e/ O- j, ]& F 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正)" g' O3 }) I |6 v. M& b
- h' Y4 ^: M! N0 c& w5 I* m6 p◇ + _- A' y" p0 R+ @" ~0 Y, H% W( R& { " \# N! [7 U$ N# M 【用語解説】中国青年報7 X. P& m/ ~. _! h6 E$ E9 O! b
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共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。. e% i: R9 N4 ]4 _
邓小平秘录:保守派主张不能对民运让步) x* q& l4 ^1 V. x/ Y, i4 L# Y# W1 t
$ ~/ O/ p6 X, l1 l
(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。( ~* F. n! F# [
3 }3 h+ t+ m7 {
“秘录”指出,与会者多数表示,当前的情势极为严重,绝对不能对民运让步,和主张撤回或修改四月二十六日人民日报定位学运动乱的赵紫阳的意见对立。会上决定对北京部份地区实施戒严。, \, B" z, n% x8 A! Y C
' {7 ?& E! t% c) s$ v, v对赵氏表示理解的国家主席杨尚昆在会上指出,若让步将造成堤防溃决。邓小平表示宜下戒严令,并征求与会者的看法。以观察员身分出席的薄一波提议表决,结果李鹏和姚依林两票赞成,赵紫阳和胡启立两票反对,乔石弃权,邓小平的一票具有了决定权。 3 W% F/ ]0 L/ y j , A+ o z8 a V$ m' L9 N5 N赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。 0 p3 d& }* d% f! N- k- A$ m4 O* n9 e
赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。 $ k, E6 W) N0 f7 A6 c/ I& Z; Q) \/ p
党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。 - b0 ]' U. s. k" ~% _: D- ^: d C4 I+ c# o/ A
【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚0 Z) D' |' B7 h: R. z' k5 ]
) `2 A5 E! Q5 m) J6 r北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。 ; F% X- S+ e: _9 z/ m# x% Q. F: Z) o ; e0 R. ?% a: |% X, Z9 K4 h4 [# M 「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」% ^. J; J) C) q' Z9 k8 U( ~6 V
$ b' V ~' U! q 文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。8 m Q$ B1 E+ {; H6 ~# Z1 k$ Q
+ U0 o* S. O* k- e' J* ` 会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。% ~/ B4 y( N# o$ Q b' y
$ F% N4 }' p2 L3 _8 v2 o8 U 「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」/ S) s- Q* ^3 T3 ], w# z3 S( C
1 t6 L' j6 {% J C それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。 # b3 }; H: k! q/ }! K/ M3 M" i. X6 E
トウ氏が言う。" g# F, V a8 w0 |
) }6 y7 q) c' C, l 「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 ; o3 b8 L0 ~, y, o5 ^# r* e% L( P* q' p
沈黙していた趙氏が発言する。 3 w. { {& v( j6 C, M3 ~7 S( t+ G4 w
「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」 & j4 I8 }& ^- d% F+ \3 M& Z) i+ G: ~+ b# i
「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。 ) q1 P1 z& ~5 f # m% t6 f$ t; u; u' z0 t その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。% @8 E; Z. i7 V* h7 u
0 F+ |, F0 b+ X: ~2 F トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。 # Q& q, w0 l% L Q # ]$ Q9 ?3 T$ f U4 N オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。# T. c! z+ r0 E4 f
y# ?) U. a% R- a; T' }: E- Y 賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。 # h$ O" H, h. u4 Y ( S9 `: t6 ^" {/ ~! u# z4 T 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」! s6 i; m, K9 U" Y) ]$ k: o* O8 r
! l( k$ J' X+ L9 }! g 薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。/ }, Y9 C2 J) X# x2 e
$ o& W# C4 f1 }, k: T' Q. U# Z 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。 2 K% X8 U, l% ]: {7 a5 q& P: U1 O! \$ f+ I. d
趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。 9 U& A; M+ t/ j3 J/ B* }* u2 E, K+ \+ P# u# \/ L2 g6 {
「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」5 e8 G3 o0 ?; e' Q
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戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。 : b$ g y/ M, r" }6 H) E8 v, Q ; u% X- M' t2 p& {" t5 a さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。$ b+ @8 P v/ @' i
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権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。4 V. e- G7 h* [# B, n8 |- _
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秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。 3 k% K+ m. r7 v$ R+ D T* c1 t: O* D0 |' ~
「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」 $ o# P7 f E1 o* v' K2 m, b" p ! k* u+ w+ w: V) L; `4 `. i7 \ トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。9 s+ O9 u6 h9 [' G1 i
6 z* Z% y8 X7 y& V/ }& |- ^7 \( F 「政権は銃口から生まる」(毛沢東)1 g+ \' O }' M
/ S' H% b- I: \' { 政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正) 6 \$ x4 P4 z! p! m 8 {9 `9 [3 D6 x% n◇. i# B- M/ g! u2 A
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【用語解説】政治局常務委員会8 b1 s' V: w, s
8 W6 W8 a! Y; G0 w 中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。" ~7 a$ h0 Q, v- p3 a
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& i2 K, ]3 T, C, A# V4 p, h & K5 u e0 B6 N4 P" l' u; E北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち
邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖 6 \- Y8 z/ S M. x% S2 U中央社 9 i6 \" b1 R6 W! h, U' t/ B& `" S; H* \( q/ e
日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。" U l- E M: e$ O) W
& |7 O b) h0 u+ d 「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。 ) d8 a" F5 {0 l8 a5 F. R3 U3 U7 b9 O9 m h0 ~# f+ g1 O; J2 W
张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。2 {0 d! u* h# D+ a1 C0 E! ]* F
7 s# k$ T* v+ q" ^6 y5 F 万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。5 F6 A w; {% f3 K% v* f) r
4 C. {& Z1 |; {8 Z2 u; ]7 _. X 五月二十三日,北京出现戒严令之后最大规模的数十万人的示威后,中共有关当局下令各部门和工作场所禁止示威,二十四日以后,参加示威者急速减少,中共元老们的动向也逐渐明显化。大陆知识份子预感党中央行使武力的行动已接近,继续说服学生撤出广场,学生也曾决定撤出广场,但是悲剧仍然发生。+ `" J/ ^$ T5 @. T1 S' H2 U
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【トウ小平秘録】(27)第1部 天安門事件 緊急帰国# z: x$ {3 Z9 E! E, ^1 z
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天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。 2 s4 K$ N9 Y" U) h8 [ 9 I! J- ^5 J4 L' f: ] 3 T3 J* e1 \" c: T- a) o
期待は裏切られた 8 n4 n2 l: d/ n* z' ~, n# P: y) ]; J z T2 n
そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。, g3 j0 u3 P( W; \: q
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万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 0 u4 q S3 i# l3 k+ o% g$ T3 ~2 f3 X+ u* O
万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。 5 a- m. Y" o# u7 P $ ]7 @4 K% L3 P* q7 b0 V しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。 9 H6 y2 q: e) w4 ?, o+ c : G* m6 ^! J1 R5 M! H/ K' b 党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。 ) B, W( o9 e) ` 4 r) V2 f; `7 s 趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。 7 m$ o' F( V3 ~- k 8 G$ K' C1 U3 H0 u* j" B! ? また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。 $ @: s2 W; p2 b/ a. j/ C- @2 A$ E. V+ B. B* o+ r7 [( Z, [
万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。 H0 E- c3 p! n) L
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しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。6 n7 N6 d b" y: f6 _
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「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。 . ]: o+ D" V0 m; L3 S : i" Z7 F$ |! {" q( U3 C 《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》# {; k l4 M" o4 h. M# r& C
" b. K; Z. R: V. ?. a 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。8 y. Y; Q: U. S0 h: W1 n" }
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。* Y, L9 v* H0 t1 C0 _% m
- T! |5 @1 V- _# N" i' p その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。, e: r! b- w. V2 T
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楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。 0 U0 c/ O6 J4 @/ L6 [0 V5 N3 v& p! {8 I/ N: w! ]# T
長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。 . G! r: J( O2 q2 n& p/ y- m% r. J' j ) U1 ~6 b* J$ ?, N: W2 T 「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」 ( `, \7 w. D) d3 I# f) r3 u' L" B l$ R9 Y' c. L% ]
陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。/ I# S' N, @6 A: R( r( ~; W
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知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。9 ^6 e) Z. J# ^) F8 C
) N9 K4 Y7 Y8 p5 X- u% u6 J いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正)0 \- l' }& B1 I# D% c
) _6 L5 F' R& W ■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。+ \% t% K: E4 Y7 h! K
邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争 0 X# f. c0 Y8 @. a) J4 d9 v . T& q1 x6 y2 F2 t7 O2 |, w. g, r8 p, }(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。. A. f* a( N* O' X
: O$ @$ R/ p) r0 l! R/ ~$ r トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。! E2 J* q8 i. c$ U" n$ X' {' S
: |% @. K7 f+ n& W+ o このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。: @& g1 [6 Y4 ]5 v; V+ C( n. B: q
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毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。9 g. @" C/ [; E% @
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毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。; q1 N5 p6 ~0 X0 l
) F8 o4 c& N0 G/ O 林彪事件である。' x; k# v2 I4 g: D
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# z0 m4 r, d6 `5 N冒険せず何もできぬ 0 S7 g$ D% b6 y0 x% | $ _9 {" u2 P9 T4 T- Y1 e9 x トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。 + e# o8 O( b7 n1 L8 B: e, f8 q/ _- I$ a+ U' u
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 ' b8 F3 I% G+ M0 T1 S" T. T7 i3 Z$ }* `
トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 " Q8 M) j$ u9 o! t" w0 h ( w4 @* h. @ |, B7 Y. I 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 6 X" W0 l- L7 V* M( j 4 e- k3 _* ~% O+ m5 s3 B. l 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。 " _. H0 ]$ z9 f) T( l, x+ S% a+ x5 _0 x0 w, L+ t+ i2 ?. x
トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。2 `1 a' d8 }* ?$ l
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トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。, l: C9 h/ ]( Z( w# G0 k% r( @3 d
; | m% K# |; P5 [+ G+ y$ C 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。& z! D5 Z( ^( ]9 o, D/ y# M
. _% ^3 i6 P9 N4 x0 v2 K) c) p 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。# B$ g1 o1 G% F; ^% ^+ }
$ u) b3 h# i" ?; a' k しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。 % G8 v" G; C! m. {5 \+ n E. C! \: r8 L4 B0 g+ f* v トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。 O, V( B+ ~6 M, o: q/ L: V9 j: g
3 _+ t; b5 E: g8 `2 x6 P) I それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)9 d2 k% e l6 W" f