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发表于 2007-2-23 10:38
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改革风波造成赵紫阳地位动摇
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# @/ o d) A! b人在德国 社区(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。
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文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。9 v5 s, O8 Z V1 w* V
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。8 m# K5 a0 z; h
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“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。
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" D, k. m8 X; P2 L9 z! L5 B1 fwww.csuchen.de赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。9 O3 p% k+ O7 v* N, d L
0 L9 ^- C' r! n) K9 b2 j+ V“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。www.csuchen.de i, s% n4 W0 {% ?- ]$ t7 h9 R$ B
6 ]' v' I7 }2 D8 M' i. @" W% F【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点
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- S9 F" F. g" A, m) h1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。
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「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話)
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- Z7 a. j- R3 X8 z 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)
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. n; l* R$ R/ y, O; |) lwww.csuchen.de 「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に); i! ?. d" P3 H. X$ u# F
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価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。5 e& k0 \( K" x% }$ c0 Q6 \
& u3 B+ j6 B3 c# i それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。
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「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。
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姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。www.csuchen.de6 X6 y* i! g* |6 _
) @# ?$ ]3 S6 c1 C* vwww.csuchen.de 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」www.csuchen.de5 P: H. h5 D$ o! G/ r: T5 R
% m6 p% k5 u3 {( rwww.csuchen.de 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。
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3 G ^; C) S5 c, ?" @9 Fwww.csuchen.de 88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。www.csuchen.de. d2 r, ~# {5 V+ N6 n9 g
: n- x2 y$ o, m6 A 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」
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; n* {, N2 x B6 Q# R' d* n. V 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。
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「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。
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改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。www.csuchen.de* K8 i) a- l, L2 _
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≪空白の2カ月半に何が≫
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1 u0 M1 X: P6 m! d3 } 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。% j+ ]* G9 B% M7 e& b
) f9 @. w/ U" t% O. r- @ この間に何があったのか。
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6 o9 A% l5 v- q5 Z トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。
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3 U, ?8 F. {% X+ }' J 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。www.csuchen.de ]6 D2 P2 l( t: d: {
( \, `9 f9 x0 ^& m+ ~3 } 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。
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学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)
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/ B& i* _, q+ f* X# U トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。& ^9 P9 S% }; u6 `
$ v/ j, d5 }+ V" d3 A このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)www.csuchen.de; B9 R" I) P+ g: D5 [
- Y- `) }, j! \0 ` ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。
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(2007/02/23 07:54) |
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1988年9月16日、北京・人民大会堂で自民党の二階堂進氏(左)を歓迎するトウ小平氏
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